台長コラム ときどき土佐日記

2011年8月アーカイブ

先日、仙台市青葉区大町、西公園の近くにある「斉藤報恩会博物館・ポケットミュージアム」に行ってきました。ポケットミュージアムの名の通り、こじんまりしたワンルームの博物館ですが、それだけ身近に親しみのわくミュージアムです。

以前、仙台市青葉区本町に「齋藤報恩会自然史博物館」がありましたが、残念ながら平成21年3月に閉館し、平成21年7月に縮小してこちらに移転開館したものです。恐竜の骨格標本、宮城県産出の化石や鉱物、絶滅が危惧されている鳥類の剥製、さらに財団法人斎藤報恩会が助成した研究の成果などがコンパクトに展示されています。
このミュージアムの目玉はなんといっても、肉食恐竜アロザウルスの全身骨格標本です。レプリカですが、なかなかの迫力です。実は、仙台では大型肉食恐竜の全身骨格標本はここでしか見られないので貴重な存在です。

博物館の展示室に入るとアロザウルスの大きな顔・頭骨が迎えてくれます。恐竜の顔があまりに間近にあるので、今にも顔をなめられそう、否、一口にパクッとされそうです。下に「手を触れてはいけません」という「表示」がありますが、僕たちも「なめてはいけません」・「恐竜の食べ物ではありません」という表示を首に下げたくなります。

でもほんとうは心配いらないのです。実は、恐竜は6500万年前に突然絶滅し、人類はそれよりずっと後の数百万年前に出現したとされ、幸か不幸か全く時代が異なり両者が出会うことはなかったのです。

恐竜は宇宙人と並ぶSF(サイエンスフィクション)の定番ですが、自然史にはなかった人類との出会いをどのように仕立てるかが重要なポイントです。僕は幼少の頃からSFが好きで、シャーロック・ホームズの冒険でお馴染のコナン・ドイル著『失われた世界』や映画化され大ヒットしたマイケル・クライトン著『ジュラシックパーク』など「恐竜モノ」を大いに楽しんだのですが、いかに人間の時代に恐竜を出現させ、人間との出会いを演出するかが最も興味のあるところでした。

フィクションではなく、科学的・自然史的に興味深いことは恐竜絶滅の原因です。様々な説がありましたが、現在最も有力な説が巨大隕石の衝突です。様々な状況証拠が集められ、隕石が落下した場所も特定されています。巨大隕石の衝突による恐竜絶滅は、僕も講義や講演でよく取り上げるのですが、科学的に説明ができるようになりました。

巨大隕石の衝突は恐竜にとって大変不幸な出来事でした。しかし、恐竜には申し訳ないのですが、それが人類の祖先に幸運をもたらしたということです。人類の祖先に当たる哺乳類は恐竜の時代に出現したそうですが、小型で、恐竜におびえながらひっそりと暮らしていました。哺乳類は環境の適応能力が優れていたので、絶滅によって恐竜の脅威がなくなると、恐竜に代わって繁栄・進化し、やがて人類が出現したというのです。ということで、恐竜も隕石も我々の存在と深くつながっているということになりますが、自然史の面白いところです。
 
ところで、博物館に「齋藤報恩会」という歴史の教科書の中から出てきたような名前が付いていますが、事実、斎藤報恩会は歴史に名を残す事業を行ってきた財団なのです。宮城県の斎藤家第9代当主、斎藤善右衛門が大正12年(1923年)に私財を投じて設立し、学術研究教育振興を行ったものです。当時このような財団は前例がなく、その事業内容はユニークで先進的なものでした。財団の活動は今も続けられていますが、そのような財団の歴史も展示の中にうかがうことができます。
 
斎藤報恩会博物館・ポケットミュージアム
〒980-0804 仙台市青葉区大町2丁目10番14号 仙台パークサイドビル2F
TEL:022-262-5506
http://www.saitoho-on.com

六分儀のご縁

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 前回の日記で、仙台市天文台で開催されたシンポジウム「八分儀・六分儀―伝来とその役割」について触れましたが、そのシンポジウムに関心がありながら参加できなかった方から質問があったので少し補足します。

シンポジウムのパネラーは(五十音順・敬称略)黒須潔(仙台郷土研究会理事)、小林幹夫(タマヤ計測システム㈱参事)、西城恵一(国立科学博物館研究主幹)、塩瀬隆之(京都大学総合博物館准教授)、土佐誠(仙台市天文台台長)、中村士(帝京平成大学教授)、古荘雅生(神戸大学大学院海事科学研究科教)、そしてコーディネーターは葛西誓司(タマヤ計測システム㈱代表取締役)の皆様でした。

六分儀は1757年にイギリスで発明されてから間もなく日本に伝来したようですが、当時日本は鎖国をしていたので、六分儀が航海に活用される機会は殆どなかったようです。その代わり測量機器として独自の発展がありました。これが今回のシンポジウムの主要テーマです。そのあたりの事情は、今回パネラーとして出席された中村士さんの『江戸の天文学者 星空を翔ける』(技術評論社)に興味深く記されています。お勧めです。
 
実は、今回のシンポジウムは六分儀メーカーのタマヤ計測システム株式会社の葛西誓司社長から全国のその道の専門家に声をかけていただき実現したものです。六分儀のご縁、重ねて感謝です。このようなテーマのシンポジウムはたぶん我が国では初めてではないかと思います。私にとって貴重な経験でしたが、天文台としても画期的なイベントでした。
 
実は、今回お世話になったタマヤ計測システム株式会社の歴史も興味あるものです。資料によると、その創業は江戸時代初期(1675年)に遡るという老舗で、最初「玉屋」という屋号で眼鏡の輸入販売を始めたということです。やがて、眼鏡から計測器へと事業を拡大し、さらに海外からの輸入に頼っていた各種計測機器の国産化を成し遂げました。その中に六分儀がありましたが、資料によると、Tamayaブランドの六分儀はドイツ製と共に世界的に高く評価され世界の六分儀市場の大きなシェアーを占めたということです(B.Bauer,  The Sextant Handbook. 2nd ed. International Marine/McGraw-Hill Book 1992)。

私の手元にある「昭和7年版・玉屋商店・商品目録」には天文経緯儀が載っていました。天文経緯儀は天体の高度方位角を精密に測る機器ですが、口径8cmの望遠鏡を備え高度・方位角を1″まで読み取れる精密なものです。「我が国天文台の命を受け製作」ということで、当時の我が国の天文学の発展に貢献したものと思われます。

実は、仙台市天文台の展示倉庫にある古い測量機器の中にもいくつか「玉屋」の屋号が刻まれているものがありました。また、1950年代末から1960年代にかけて旧仙台市天文台で人工衛星の観測に活躍したセオドライト(気象経緯儀)も「玉屋」製でした。仙台市天文台も意外に古くから「玉屋・タマヤ」さんとお付き合いがあったことを発見しました。
 
 
 
先日、仙台市天文台で「八分儀・六分儀―伝来とその役割」というシンポジウムが開催されました。各方面の専門家に参加いただき、興味深い話を聞くことができました。

遠洋の航海は、目印となるものがなく、方位や自分の位置を知るのに星だけが頼りです。星を測って航海をする天文航法において最も重要な観測機器が六分儀でした。1757年にイギリスで発明され、20世紀になって電波灯台やGPSが普及するまでの二世紀余り大海の船を導いてきました。この間、原理も基本的な構造も全く変わっていません。驚くべき完成度、究極のアナログ機器です。

仙台市天文台に六分儀が展示されていますが、こんなに小さくシンプルな機器が遠洋を航行する船を導いたと聞くと驚きです。現在も、非常時のために装備している船舶も多いということです。今回は、仙台市天文台の「六分儀伝来の秘話」をご紹介します。

私はかねがね六分儀を天文台に展示したいと考えていました。そんなとき、我が国唯一の六分儀メーカーであるタマヤ計測システム株式会社の葛西誓司社長が天文台を訪問されました。

葛西社長とお会いして、当然話題は六分儀になりました。葛西社長は、我が国で最初に六分儀の国産化を果たしたメーカーの責任として、六分儀の伝来とその後の発展を調べておきたい、そして皆さんに六分儀をもっと知ってほしい、ということを話されました。私は六分儀に対する関心をお話しし、大いに意気投合したわけです。

このような出会いがあって、天文台に六分儀を展示したいという思いが一層強くなったのですが、ほどなく葛西社長から天文台に六分儀を寄贈したいという申し出を頂きました。感謝感激の極みでした。

※その時の写真はこちらにあります→宇宙のひろば「六分儀(ろくぶんぎ)をいただきました!」

天文台スタッフからは「台長がもの欲しそうな顔をするから(はしたない!?)…」などとたしなめられたのですが、実は葛西社長にはもう一つの出会いがあったのです。

葛西社長が来台されたとき、プラネタリウムをご覧いただきました。投映が始まると、ろくぶんぎ座(六分儀座)が南の空に現れたのです。ろくぶんぎ座の存在をご存じなかった葛西社長は、この星座を見て大変驚き感激したということでした。もちろん私が指図したり、プラネタリウム解説者が意図していたわけではありません。ご縁としか言いようがありませんが、思いがけない発見と出会いにたいへん心を動かされたようです。

天文台長には欲しいものがたくさんあって、事あるごとに「星に願い」をかけるので、お星さまからうっとうしがられているのですが、今回は、ろくぶんぎ座の星々が葛西社長に積極的にアッピールしたようです。「もっと六分儀を知って欲しい」という「星の願い」が葛西社長の思いと重なり、社長の心を動かしたのでしょうか。天文台長は、「星の願いがかなって仙台市天文台に六分儀が展示されることになった」、と今も信じているようです。
 
ろくぶんぎ座は春の星座で17世紀にポーランドの天文学者ヘヴェリウスが設定したものです。航海用の六分儀が発明される前から天体観測用の固定された六分儀が使われていましたが、星座になったということは、当時六分儀が大変重要な観測機器であったことを示しています。

ろくぶんぎ座は目立たない星座ですが、プラネタリウムの他に展示室の「星座を見つけよう(U12)」のパネルの方の「春の星座」に見つけることができます。それから、天文台の入口を入って左手にあるサポーターボードにも大きな星図がありますので、ろくぶんぎ座を探してみてください。何か面白い発見があるかもしれません。
第9回<前編> こうじ(詩人)→まこと(天文学者)へ


kouji.jpgまことさん、こんにちは。
交換日記の再開、うれしいです。
返信、ありがとうございます!

前回のぼくの書いた日記を読み返してみると、(昨年になるんですね)ぼくは病気になり、入院して、とても動揺したことを書いています。

それは、ぼくにとって、とても大きな出来事でした。

だけど、今となっては、なんか遠い、小さな出来事のように思えます。
3月11日から、いろんなことが変わってしまいました。

ぼくも天文台に行った時に、まことさんを見かけ、安心していました。
ほんとはきちんと挨拶をして、その時にいろんなことを話したかったのですが、どこか、まことさんとはこの日記の中で、言葉を交わした方がいいかな、とも思っていました。
どうしてかはわからないのですが、きっと、心が落ち着いてからお話できたら、と思っていたのでしょう。

あの日から、5ヶ月が経ちました。
だけど、心が落ち着くことはなく、日々いろんな感情がいったりきたりしています。

さっき<いろんなことが変わってしまった>と書きましたが、ふと日常を見渡すと、なにも変わっていないような気もします。
これは、なんなのでしょう。。。

街(国)にはいろんな情報が溢れ、いろんな言葉が飛び交い、いろんなイベントが企画されています。
復興はもちろん大事ですが、どこか「元気」になれない自分がいます。
まことさんの日記にあった、「元気って、なにか根源的なもの」という言葉が心に残ります。
あの日以来、もっと根源的ななにかを考え、感じている自分がいるような気がするのです。

また、先日ある仕事で避難所に行き、そこで暮らしている方と話をする機会がありました。
その方は家が流され、今まで積み上げてきたものがすべてなくなってしまったような気がする、と言っていました。
手元にある数枚の写真を大切にしている姿を見て、過去の大切さを考えました。
過去についても、前回の日記で触れているんでよね。
その仕事では、過去の大切さをテーマに詩を書きました。

思いつくまま書いてきたら、まとまりがなく、長い日記になってきたので、これくらいにしようと思います。

日々揺らぎ、わからなくなり、すごーい元気にはなれないけど、今、とても大切な時間を生きている、と感じています。

次にお見かけした時は、声をかけますね☆

(8月11日)

 

第9回<後編>まこと(天文学者)→こうじ(詩人)へ


makotokao.jpgこうじさんへ

こうじさん、大震災の後いろいろなことがありましたね。僕の気持もこうじさんと重なる部分が多々あると思います。

大震災からまもなく半年ですが、今もなかなか希望が見いだせない困難な状況にある人も多いでしょうね。希望というといろいろ思いだすことがあったので書いてみます。

こうじさんは伊勢湾台風って聞いたことがありますか。1959年9月に紀伊半島から東海地方にかけて大きな被害を及ぼした台風です。調べてみると、犠牲者はおよそ5000人、全国で被災者数150万人を超す未曾有の大被害だったそうです。僕の住んでいた東京でも強風が吹き怖い思いをしました。当時僕は中学生で、台風の直後に京都・奈良の修学旅行がありました。東京から京都に向かう修学旅行列車(当時修学旅行専用の団体列車がありました)が名古屋に近づくと、まだ浸水している家屋や屋根が飛ばされた家など、生々しい台風の傷跡が残っていました。このような様子を見て、誰ともなく義援金を送ろうという声が上がり、急きょ車内で募金を行ないました。まだお小遣いを使う前だったので良いタイミングでした。その修学旅行列車の名前が「きぼう」でした。「修学旅行生の希望が被災者の希望につながりますように」というようなことを車内で話しあった記憶があります。

希望をひらがなで「きぼう」と書くとずいぶん印象が違うように感じますね。僕には、文脈にもよりますが「希望」の方は暗闇の中の灯のような切実な感じがしますが、「きぼう」の方は明るい中でより輝きを求めるような感じがします。こうじさんはいかがですか。

そういえば、国際宇宙ステーションの日本の実験棟の名前も「きぼう」でした。昨年、日本科学博物館協会の海外視察研修旅行で、アメリカ・ヒューストンのジョンソン宇宙センターを見学しました。その時、宇宙飛行士の若田光一さんが「きぼう」の地上模擬訓練施設を案内してくださいました。本物の「きぼう」と全く同じスケールに作られたもので、「きぼう」で働く宇宙飛行士の訓練が行われるということでした。若田さんから「きぼう」についてていねいな説明を受けましたが、若田さん自身が「きぼう」を体現しているような明るいさわやかな方でした。そのとき若田さんからいただいたワッペンには「Kibo」と書いてありました。今度天文台でお見せしますね。

もうひとつの「希望」についてもいろいろ思い浮かぶことがあるのですが、長くなってしまったので次の日記に書きますね。とりあえずひと休み!

(8月16日)


もうひとつの「希望」については、すぐに思い浮かぶのはヴィクトール・フランクルの『夜と霧』(霜山徳爾訳/新版・池田香代子訳2002年、みすず書房)やジャン・ポール・サルトルの言葉です。


フランスの哲学者・作家サルトルは、学生時代に彼の本を何冊も買いこんでその思想や哲学に近づこうとしたのですが、ぜんぜん近づけなかった片思いの「先輩」です。ノーベル文学賞の受賞を拒否したこと、女性作家・哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワールとの関係、1966年に彼女と共に来日したときの行動などとてもカッコいいと思ったのですが、それ以上に、なぜか彼の行動や言葉にこころ惹かれるようになりました。今になってその理由がわかるような気がするのですが、彼は失明し病に倒れ1980年に74歳で亡くなりました。彼の最後のインタビュー『いま、希望とは』で希望について次のように語っています。

「世界は醜く、不正で、希望がないように見える。といったことが、こうした世界の中で死のうとしている老人の静かな絶望さ。だがまさしく、私はこれに抵抗し、自分ではわかっているのだが、希望の中で死んでいく。ただ、この希望、これをつくり出さなければね。」(海老坂武著『サルトル―「人間」の思想の可能性―』岩波新書、174頁)

これはサルトル最晩年、彼の人生で最も困難な状況の中で発せられた言葉だと思います。僕も老人の仲間入りをして、今サルトルのこの言葉に深く共感を覚えるのですが、この言葉からすぐに思い浮かぶのは、釈迦入滅の時に絶望する弟子に残したという最後の教え「自灯明・法灯明」です。『岩波仏教辞典』によると「自らを灯明とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、真理を法灯とし、真理をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」という教えです。サルトルは無神論者でしたが、まさに自灯明・法灯明の人だったと思います。

僕は、このようなサルトルや釈迦の言葉を、いかなる困難な状況にあっても希望を見出そうとする力が人間にはあり、希望はその人の中にある、と解釈しました。そして、それはいのちの根っこにある生命力と呼ぶべきものではないかと思ったのです。

前回の日記で、被災者へのメッセージを求められてもなかなか言葉が出なかったことをお話ししましたが、今思うことはこのような希望と生命力です。

こうじさんが過去について書かれたので、今度は未来のこと、希望について書きたくなりました。と言ったもののまた昔の話になってしまいましたね。でも、僕には現在、そして未来につながっています。「希望」、たった二文字の中にこんなにたくさんの思いを込めることができるなんて、言葉って本当に不思議ですね。ではまた、こうじさんお元気で。

(8月19日)

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 仙台七夕がやってきましたが、先月七夕の頃、東京に出張したときに時間があったので、東京竹橋にある東京国立近代美術館を訪ねました。

 仙台市天文台は博物館登録施設、国に博物館として登録されています。天文台に勤めるようになって、博物館・科学館・美術館などを訪ねるのも仕事になりました。

 東京国立近代美術館ではクレー展が開催中でしたが、常設展示では近代日本絵画の代表的作品を見ることができました。

 常設展示ではガイドツアーの案内がありました。天文台でもスタッフが展示ガイドや解説などをしているので、参考になることがあればと思い参加することにしました。

 ホスピタリティあふれる女性のガイドさんで、楽しくわくわくしながらツアーに出発しました。七夕の季節ということで、空や星をテーマにした作品をいくつか選んで案内してくださいました。

 ガイドさんは、作品の解説をするというより、まず参加者の感想を上手に引き出して、そこに解説や鑑賞のヒントを少し加え、また問いかけをして参加者の反応を見ているようでした。ツアーが進むにつれ、参加者からさまざまな感想や意見が出され、見る目も変わってくるようです。30分ほどの短い時間でしたが、楽しいひと時を過ごしました。

 このガイドツアーで、一枚の絵に思いがけない再会がありました。それは、太田聴雨(1896−1958)の「星をみる女性」(1936年)です。

 五人の和服を着た若い女性が大きな屈折望遠鏡を囲んでいる絵です。切手(1990年)にもなった絵ですが、切手では右側の女性1人と望遠鏡の架台・ピラーがトリミングされていました。実物は273×206cmの大きなもので、細部まで良く見ることができます。

 日本画で和服の女性と天体望遠鏡、想像しにくい取合わせですが、静かな調和があります。太田聴雨は「描かれた女性は『悠久的なるもの』への思慕を表現する為に私が仮に託した映像に過ぎない」と述べているそうですが、私は日本版ムーサ、ミューズの女神と解釈しました。ミューズの女神たちが集うところがミュージアムです。

 特に私の目を引いたのは、望遠鏡を覗いている女性の目と、その望遠鏡です。望遠鏡は見慣れたドイツ式屈折赤道儀で細部まで実に正確に描かれています。解説によると、予想通り上野の国立科学博物館の口径20cm屈折望遠鏡でした。1931年、国立科学博物館1号館が完成した時屋上に設置されたもので、当時から観望会が開かれていたそうです。画家も観望会を見て着想を得、望遠鏡を忠実に写生したのでしょうか。

 実は、私も昔(1950年代)、中学生の頃何度か上野の科学博物館の天体観望会に参加し、この望遠鏡を覗いたことがあったのです。憧れの大望遠鏡でした。今はもう使われていないようですが、思わぬ再会でした。
 
この絵は独立行政法人国立美術館のウェブサイトで見ることができます。
太田聴雨「星をみる女性」 http://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=2102

第8回<前編> こうじ(詩人)→まこと(天文学者)へ

kouji.jpg
まことさん、こんにちは。
 
この連載はなんとなく締め切りがあって、それはぼくのワンコインプラネタリウムの開催日(毎月第2土曜日)までに書くというものなんですが、今回はぼくが体調を崩してしまい、入院するということになり、連載も書けなくなり、ワンコインプラネタリウムも休んでしまいました。ワンコインプラネタリウムは12星座のリーディングなので、ぼくにとって毎月プラネタリウムに行くというのは、とても大切なことだったのですが、それに穴をあけてしまうなんて、とても残念です。なにより、突然のことだったので、アナウンスが間に合わず、当日来ていただいたお客さんもいたとのことで、本当に申し訳なく思っています。
 
今は退院して、自宅で休んでいます。今年の年末は静かに過ごしています。
 

 
前回のまことさんの日記を読み返してみると、LPの話からはじまり(ぼくも結構持っています。やはり同じタイトルのCDも)、過去についての話がありますね。確かに、過去にこだわっていると、とても後ろ向きに思われてしまいます。でも、まことさんの日記を読んで、やはり過去に対してのアプローチは大切なことだと思いました。宇宙や星のことは、未来の話のように思うけれど、やはり過去につながっていて、しかもまだ解き明かされていないことがたくさんある...未来は過去を解き明かしていくことによって、作られていくと思うと、今見えている星たちがとても大切なことを伝えているように思えてきて、なんだか感動してしまいます。
 

 
プルーストの『失われた時を求めて』の話。「プルースト友」っていいですね!ぼくも学生時代とても苦戦しながら、読みました。正直、理解できなくて、何度も挫折しかけました。でも、文学を語り合える友達と張り合って読んでいたので、なんとか読みました。あの時、ぼくはその友達に「この本はわからない、難しい」といえる勇気がありませんでした。そして、この本を完成させることのできたプルーストに圧倒されました。『失われた時を求めて』なんと素晴らしいタイトルなんでしょう。今、読み返してみたら、どう感じるか、ぼくもこの冬は時間があるので、挑戦してみようかな...。あっ、サルトルの自伝のことは知りませんでした。これも早速手に入れたいと思います。
 

 
年が明けたら、「望遠鏡で月をみる会」をお願いします。この日記と12星座はぼくの大切な連載ですが、やはり月も忘れるわけにはいきません。月の連載も考えたいです。
 
最後にクリスマスの詩を載せたいと思います。
 
まことさん、今年はいろいろとありがとうございました!
 
そして、みんなのクリスマスが良いクリスマスになりますように☆
 
暖かい夜だけど
雪が落ちてきて
 
星は消えたけど
街は明るくて
 
大切なもの 一つ 二つと
数えれば ツリーみたいに
心 チカチカ
 
言葉にできないけど
話さなきゃ
 
マフラーをまいて
明日 ほんとの気持ち
そっといなくなる
 
***

(12月24日)
 
第8回<後編> まこと(天文学者)→こうじ(詩人)へ
 
makotokao.jpg こうじさんへ。
 
ご無沙汰しておりました。言い訳をしていると長くなるので、長旅から帰ったと思ってください。震災後もこうじさんの元気なお顔を何回か拝見したので、まずは安心してそのままになってしまいました。

震災からもう5カ月になろうとしていますが、今でも人に会うとまず震災の話になってしまいますね。

震災後、気になることがいろいろあるのですが、そのひとつが言葉です。停電が回復してテレビが見られるようになると、どのチャンネルでも「ニッポンは強い国」、「がんばれニッポン」、「ニッポンを元気に」といった言葉が何度も繰り返されていました。以前は特に気になる言葉ではなかったのですが、何度も勢いよく繰り返されると、食べきれない大盛りのご飯を勧められたような、飲み込めない、消化しきれないものが残りました。

少し落ち着いてきた頃、「被災者へのメッセージ」を求められることが何度かありました。でも何といっていいか言葉が出てきません。無理に求められると、あいまいな言葉や、「元気・・・」と型にはまったことを言ってしまいます。口先だけの空しいことを言ってしまったようで落ち着きません。遠くの山を眺めたり、雲を見上げながら後味を噛みしめることがありました。

惻隠(そくいん)の情を自分の心に近い言葉で表したいと思うのですが、なかなか思うようにできません。言葉って難しい、そんな思いが続いています。こうじさんは、震災後もいろいろな活動をされていましたが、いかがですか。
 
震災で市内の本屋さんが何軒か閉じられてしまい悲しい思いをしました。先日再開した本屋さんをのぞいたら、森毅著『元気がなくてもええやんか』(青土社)が目にとまりました。著者の森先生は数学者ですが、エッセイやテレビでもおなじみです。表紙の文字から「・・・ええやんか」という森先生の声が聞こえるようで、なんとなく心が軽くなって少し元気が出る思いがしました。昨年亡くなられましたが、独特の語り口と風貌が目に浮かびます。

今日はここまで。では、こうじさんお元気で。アッ、「元気」って言っちゃった。気にしないで下さい、と言ったものの気になったので「元気」を辞書で引いてみました。「天地間に広がり、万物生成の根本となる精気」(『広辞苑』)とありました。「元気」って何か根源的なモノなんですね。 
 
(8月4日)

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