台長コラム ときどき土佐日記

2009年1月アーカイブ

遅ればせながら(その2)ですが、日本SF作家クラブの皆さんとのトークショーで私が推薦したSFの一冊目は(遅れた言い訳になりませんが)H.G.ウェルズの『タイムマシン』(1896年)です。時間の壁を超えるタイムトラベル(時間旅行)の物語で、その後のSFの原点といえる作品です。

 

日ごろ時間の壁に泣かされている者にとっては、時間を自由にコントロールできたらと思うのですが、それができないのでSFになります。もう少し早く着いていたら、もう少し早く生まれていたら、一寸した時間のすれ違いよる切ない思いがいろいろな物語のテーマになります。

 

『タイムマシン』では、タイムトラベルの冒険とともに、人間社会や地球の未来が語られますが、文明批判や未来社会に対する警告のようにも読めます。

 

さて、タイムマシンを現実的・科学的に考えると、さまざまな矛盾や困難に出会います。過去の出来事は「事実」として変えることができませんが、タイムマシンがあると過去にタイムトラベルして「事実」を変えることができることになります。そうするとその後の歴史が変わってしまい、「現在の事実」も事実はではなくなってしまいます。有名な例に「親殺しの矛盾」があります。もし、自分が生まれる前にタイムトラベルして親を殺してしまったとすると、自分は生まれることがなく、今存在しないことになってしまいます。さらに、人間のような物体が突然出現したり消えたりすることは、あらゆる自然の法則を破ることになります。周囲に影響を与えずに、物質が現れたり消滅したりすることは許されません。タイムマシンの可能性を真剣に考えている科学者もいますが、それはミクロな世界や極端に異常な世界で原理的な可能性を追求しているもので、原理的に可能であっても、人間のタイムトラベルが可能ということでは全くありません。

 

『タイムマシン』のようなタイムトラベルはできなくても、範囲は限られますが、別な方法で時間を超越することができるような気がします。私たちは人生のなかで様々な経験をしますが、過去の経験は記憶の中に残り、記憶をたどって時間を行き来することができます。私の場合、物心ついてから半世紀余り、その間を自由にタイムトラベルすることができます。そのような意味で、私たちはタイムマシンを内蔵し、人生とともにグレードアップされると言ってもいいでしょう。長生きすればより「長距離」のタイムトラベルを楽しむことができるわけです。長生きすることの楽しみを見つけました。このようなタイムトラベルは過去の「事実」に影響を与えることがないので、理にかなっています。

 

個人史を超えてもう少し広く考えると、過去の記憶は歴史や文化として私たちの社会に蓄積されています。そのような歴史や文化をたどることも一つのタイムトラベルです。過去を振り返ると、新しい発見によって私たちの認識が変わることはありますが、過去の事実を変えることがないので、これも理にかなっています。ただ、このようなタイムトラベルは、過去の人物と直接話をしたり、交流をすることが出来ないのが残念です。このことを画家安野光雅さんが『片想い百人一首』(筑摩書房)なかで次のように上手に表現しています。「古文は日本のどこで読んでも空間を越えて通じる。和泉式部の歌に酔うという、時間さえも越えて心が通じるということがある。と言っても、はなはだ一方的で、和泉式部がわたしのことを知るわけではない。すなわち「片想い」ということになる。」

 

もし、タイムマシンでタイムトラベルができたとしても、現在に戻るまでは、周囲に影響を与えたり交流することはできません。この「片想い」こそ現実のタイムトラベルの本質、だからこそSFの世界でタイムマシンにあこがれるように思います。個人的な時間感覚について考えると、相対性理論のように、人それぞれに固有の時間があるように思います。加藤周一『小さな花』(かもがわ出版)の「美しい時間」に次のような言葉がありました。「・・・あれは何年の何月のことであったか。それはもはや記憶にない。美しい時間は、日附けを失った。・・・・。かつての感覚は、今も私のなかに続いている。日附けのない時間は、永遠の時間でもある。」特別な経験は時間を超越し、その人にとって永遠の時間を獲得することがあるようです。「永遠」というと、ギリシアのテオ・アンゲロプロス監督の『永遠と一日』(1998年)という映画がありました。「時」が重要なテーマの映画ですが、タイトルから一日の経験が永遠・一生につながり、永遠を一日に凝縮するような経験もあり得ることを感じます。

 

さて、過去を語れば「未来はどうか」ということになりますが、それはいつか未来に。(その2)があれば、(その3)があるかどうかは未定です。

ときどき・・・

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先日、仙台市天文台で天体画像の教育的利用に関するワークショップ(FITS画像教育利用ワークショップ)が開催されました。遠方から参加した友人から「ブログ、ときどき土佐日記、楽しく読んでますよ」というありがたいお言葉。恐縮しつつ「ありがとう。更新が遅くて申し訳ない」と言い訳をすると、「いやあ~、ときどきしか見ないから、かまわないですよ」とのこと。「・・・・」、やさしいお言葉でした。

少しは「かまう」ようにと、遅ればせながら密かに「年頭の所感」を心の手帳に書き記していたところ、どこからともなく別の声が。「(その1)があるからといって、(その2)があるとは限らないわよね」。そういえば、学生の頃、教科書の上巻が出版され、下巻を待っているうちに著者が亡くなってしまったことがありました。

私はまだ生きています。何のことかすでに忘れられているかもしれませんが、間もなく(その2)を。 

惜別2008年

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 「2008年を振り返えると・・・」と始めたら、ブログ管理者から「台長、いまさら2008年の事を、と言われませんか?」との忠告。ご心配なく、今だから書けることを書きます。

 昨年12月末、評論家加藤周一氏の訃報に接し様々な思いをめぐらせていたら、インターネット上で2008年の訃報一覧に出合いました(訃報2008年-Wikipedia)。順に名前を追っていくと、私の書棚に並んでいる本の著者であったり、愛聴したレコードやCDの演奏者であったり、知らずに歌っていた歌の作曲家であったり、何度も見た映画の俳優であったり、昔苦労して学んだ物理学理論の創始者であったり・・・、そのような意味で「深いお付き合い」があった方々の名前がありました。日付の順に名前を抜き書すると次のようになりました(数字は生年)。

 1月22日 江藤俊哉(ヴァイオリニスト、1927)/2月8日 ロバート・ジャストロウ(天文学者、1925)、19日 テオ・マセロ(音楽プロデューサー、1925)/3月3日 ジュゼッペ・ディ・ステファーノ(伊、テノール歌手、1921)、19日 アーサー・C・クラーク(米、SF作家、1917、『2001年宇宙の旅』)、21日 中山公男(美術評論家 1927)、 24日 リチャード・ウィドマーク(米、俳優、1914)/4月2日 石井桃子(児童文学作家、1907)、5日 チャールトン・ヘストン(米、映画俳優、1924)、13日 ジョン・アーチボルト・ホイーラー(米、物理学者、1911、ブラックホールの命名)、16日 エドワード・ローレンツ(米、気象学者、1917、ローレンツ方程式、カオス・非線形物理学)、 29日 岡部伊都子(随筆家、1923)/5月8日 伏見康治(物理学者、1909)、26日 シドニー・ポラック(米、映画監督、1934)、10日 水野晴郎(映画評論家、1931)/6月18日 ターシャ・テューダー(米、絵本画家・園芸家、1915)、21日 千葉馨(ホルン奏者、1928)/7月1日 若林駿介(オーディオ評論家、1930)、10日 戸塚洋二(物理学者、1942)/14日 大野晋(言語学者、1919)/16日 ジョー・スタッフォード(米、歌手、1917)/18日 八木健三(岩石学者、1914)/22日? 都城秋穂(地質学者、1920)/27日 ホルスト・シュタイン(独、指揮者、1928)/8月2日 服部正(作曲家、1908)/2日 赤塚不二夫(漫画家、1935)/3日 アレクサンドル・ソルジェニーツィン(ロシア、小説家、1918)/13日 アンリ・カルタン(仏、数学者、1904)/30日 小出昭一郎(物理学者、1927)/9月26日 ポール・ニューマン(米、映画俳優、1925)/10月5日 緒形拳(俳優、1937)/11月3日 - ジャン・フルネ(仏、指揮者、1913)、4日 マイケル・クライトン(米、小説家、1942、『ジュラシック・パーク』)、7日 筑紫哲也(ジャーナリスト、1935、元朝日ジャーナル編集長)、10日 伊藤清(数学者、1915)/12月5日 加藤周一(評論家、1919)、6日 遠藤実(作曲家、1932)、25日 アーサー・キット(米、歌手、1927)、フレディ・ハバード(米、ジャズトランペター、1938)。

 何十年ぶりかに思い出した名前もあれば、長年の「お付き合い」が続いていた方など、私を育て、一緒に人生を歩み、私の人生を豊かにしてくれた方々です。一年を振り返ってこんな風に名前を並べてみたのは初めてですが、数多くの人々に出会っていたことに気がつきました。改めて自分の世界、自分自身を再発見する思いがします。

 なかでも惜別の思いが深いのは加藤周一さんです。「偉大なる知識人」、「知の巨人」などと評され近寄りがたい方ですが、私には親しい先輩とのお別れのように感じます。私の書棚には『羊の歌(正・続)』(岩波新書)をはじめ、『芸術論集』(岩波書店)、『日本文学史序説(上・下)』(筑摩書房)、数冊の『夕陽妄語』(朝日新聞社)、『小さな花』(かもがわ出版)、『居酒屋の加藤周一』(かもがわ出版)、『私にとっての20世紀』(岩波書店)・・・などが並んでいますが、これらは、私一人では近づき難い苦手とする分野に私を誘い、その距離を縮めてくれた友人のようです。そこに見えてきたものは、私にはうまく言葉で表現できない何か心惹かれるものでした。

 この年末年始に昔読んだ『羊の歌』を読み返してみました。彼の生い立ちから始まって、太平洋戦争、さらに1960年の日米安保条約改定までが回想されています。戦争とファシズムの中でいかに自立した精神と正気を保ち続けたか、私にとって最も興味があることですが、彼の生い立ちや感受性にも惹きつけられます。彼は私より25年先輩で、私とは全く違う環境に生まれ育ち、戦争とファシズムのなかで私とは全く違う青春時代を過ごしたはずですが、私が学生時代にこれを読んだときとても身近に感じられました。というよりは、私が漠然と感じたりはっきりと感じながらも言葉に表すことができなかったことを適切な言葉で表現し解釈してくれたのです。もどかしい私の気持ちを代弁してくれるようでした。それは組織や社会、権威や権力の不合理に対する反発や違和感であり、人間の美しさに対する憧れや愛着のようなものでした。

 そして今回、昔読んだときよりいっそう身近に切実に感じられたのですが、それはなぜでしょうか。「仏文研究室」を回想する章に次のような言葉がありました。「資料の周到な操作を通して過去の事実に迫ろうとすればするほど、過去のなかに現代があらわれ、また同時に、現代のなかに過去が見えてくる。」この本はそれを証明しているようです。

 思い起こせば、2000年の大晦日の夜は出版されたばかりの『私にとっての20世紀』(岩波書店、2000年)を読みながら年を越しました。反戦平和に強い関心を持ちながら、「(第一部)いま、ここにある危機」を語り始めます。1999年に成立した「新ガイドライン法案」に始まる一連の法律について、「広い意味での戦争準備だと思う」という言葉は新しい「戦前」を予感させるものでした。そして間もなくアフガニスタン侵攻(2001年)、そしてイラク戦争が始まりました(2003年、今も継続中)。その結果は周知の通り悲惨極まるものですが、さらに最も古い文明発祥の地そして星座の故郷メソポタミア地方が戦場となったことは、二重に悲しいことでした。私たちが星や星座を楽しんでいるとき、その故郷が戦火の中にあるというのです。

 加藤さんはあらゆる問題に対して冷静に客観的・論理的に鋭い分析を加えますが、自らの感受性についても率直に語られます。『羊の歌』や『小さな花』(かもがわ出版)には、人間の美しさに対する愛おしさや愛着が表出されています。年末のテレビに反戦・憲法擁護について語る在りし日の加藤さんの姿が映し出されていました。その表情を見ながら、彼の鋭い視線が和らぎ、ふと微笑んだ瞳の奥に小さな花が映るのを想像して、いっそう敬愛と哀惜の念を深くしたのでした。

新年を迎えて

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 明けましておめでとうございます。

 今年2009年はガリレオ・ガリレイが初めて宇宙に望遠鏡を向けてから400年目の年で、それを記念して国際連合や国際天文学連合が国際天文年と決めました。天体や宇宙に親しみ、人間と宇宙について考えようという趣旨です。世界中でさまざまな行事が行われますが、仙台市天文台でもいろいろな行事が企画されています。このところ、日々暗いニュースや困難な見通しが伝えられていますが、天文台で星や宇宙に親しみ、元気と正気を取り戻していただければ幸いです。

 元日は一年の始まり、一年で最も特別な日として人々の心に特別な感慨を呼び起こします。元日の朝を迎えた気持を吉田兼好は『徒然草』第十九段に「かくて明けゆく空のけしき、昨日に変りたりとは見えねど、ひきかへめづらしき心地ぞする。」(こうして夜が明けていく元旦の空の景色は、昨日とたいして変わらないのに、何か特別に新しくなったような気持ちがする。)と記していますが、私も同じ心地がします。

 そう感じながら、なぜ一年の始まり(年初)はこの日なのか、ふと疑問が湧きます。一年の循環や四季の変化は地球が太陽の周りを公転することによって起こる自然の循環。原因は天体現象にありますが、この日、地球の公転運動になんら特別なことはありません。

 本来、循環する一年をどこから数えてもかまわないはず。ということは、年初は人為的に決めなければなりません。実は、年初が現在の1月1日になるまでには長い歴史がありました。天体現象だけでなく、時の政治・経済・社会、権力や宗教などが絡み合って、その歴史は世界史そのものと言えます。とてもここに記すことはできないので参考書を一冊:永田久著『暦と占いの科学』新潮選書。言いかえれば、それだけ、暦と社会が密接に関係していたということです。

 年末・年始のニュースで、来年度の予算が話題になっていましたが、経済関係では4月1日に始まる会計年度というものがありました。会計年度と言っても、アメリカでは7月1日から始まるということです。これも、それぞれの歴史があるはずです。

 そういえば、一日の始まりについても同じようなことがあります。現在、私たちが使っている時間と暦では、深夜0時に日付が変わります。これには、昔人間社会の活動が最も少ない時間、日付の更新が日常生活に及ぼす影響を最小限にしようとする配慮が感じられます。人間の活動が24時間途切れなくなった現在、もし、改めて一日の始まりを決めるとしたらいつになるでしょうか。

 昔、イギリスで年末・年始を過ごしたことがありますが、やはり時計が0時を過ぎたときに、新年の気分を味わいました。しかし、考えてみれば、日本より9時間遅れての正月でした。日本時間で考えるべきか現地の時間で考えるべきか、少し「めずらしき心地ぞする」経験でした。もし、火星で新年を迎えるとしたら・・・。だんだん頭がこんがらがってきます。

 今日私たちが使っている時も暦も、合理・非合理が交じり合い、人為的にあるいは自然に淘汰された進化の結果です。進化と言えば、イギリスの自然科学者チャールズ・ダーウィンが生まれてから200年、進化論を最初に提唱した『種の起源』が出版されてから150年になります。今年は、世界天文年とともに、科学の歴史にとってもう一つ記念すべき年でもあります。本年もよろしくお願いします。