台長コラム ときどき土佐日記

2010年12月アーカイブ

 先日、出張に出るときに駅の書店で『土佐日記(全)』(西山秀人編集、角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)を見つけました。薄い文庫本で、すぐに読めそうだったので買って列車に乗りました。旅に出るとふだんは読まない本を読む機会があります。

まずは現代語訳を読んで、解説を読んで、ときどき原文を参照しつつ読み進んだのですが、意外に面白く一気に読んでしまいました。

 古今和歌集の編者として有名な紀貫之の作ですが、地方長官として赴任していた土佐から京都へ帰る55日間の船旅を、同行の女性を装って記した日記です。「それの年の、十二月の二十日あまり一日の日(ある年の12月21日)」から始まりますが、気がついたら今この時期なので私も感想を書いてみました。

 悪天候や海賊の心配をしながらの遅々とした船足、狭い船の中での集団生活、船酔いなど苦労の連続です。さまざまな人間模様やドタバタ劇が「諧謔に富んだ軽快な文章で記されている」ということですが、解説をたよりに読むと、駄洒落やユーモアなど面白さが伝わってきます。さらに、土佐赴任中に亡くなった子供への哀惜の念、親の悲しみが何度も繰り返され、この日記に深い奥行きを与えています。千年以上前の日記ですが、時を超えて喜びも悲しみも伝わってきます。
 
 この旅には、もう一人(?)重要な同行者がいます。それは月です。折に触れて登場し、そのときの情景や心情を代弁します。

 1月8日の日記に「今宵、月は海にぞ入る」と月が沈む情景が記され、次の歌が詠まれます。比喩が面白くスケールの大きな歌です。

 照る月の流るる見れば天の川出づる水門(みなと)は海にざりける(現代語訳:照る月が西に流れ流れて、いつか海に入っていくのを見ると、あの天の川も地上の川と同じく、流れ出る河口はこの海であったのだなあ)
 この文庫本には挿絵があって楽しく効果的ですが、このページの月の挿絵が少し気になりました。水平線に浮かぶ満月が描かれているのですが、月の模様・ウサギの姿勢を見ると、頭を上にしているので水平線に昇ったばかりの月のようです。実は、月の模様の向きは決まっていて、月が沈む時ウサギの頭は下になります。

 「宵に沈む」ということなので上弦前の月のようです。もし、本文に合わせるなら、半月より欠けた月が、輝いている部分を下にして水平線に沈む絵になります。このときウサギは頭を下にして海に飛び込むようなかたちになります。(ちょっと道草をしました。)
旅の進行とともに、月も移り変わり、時の流れを感じさせます。もうひとつだけ私の気に入った月の歌を選ぶと、17日、水面に映る月の情景を次のように読んだ歌です。
影見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたる我ぞわびしき(現代語訳:水に映る月影を見ると、波の底に大空が映っているが、その空を漕いで行く私は、なんとちっぽけでたよりない存在なのか)
透明な水面に浮かぶ船は宙に浮いているように見えますが、反射した月や星が水中に見えれば、宇宙に漕ぎだした心地がしたことでしょう。
 
日を追って記された日記形式で、今風に言えばブログのようです。そう思っていたら、巻末の編者の解説は「ブログとしての『土佐日記』」でした。

 『土佐日記』は高校の古文の時間に勉強したはずですが、有名な書き出しの言葉と先生の熱弁しか記憶に残っていないようです。今回、改めて読みなおしてみると、この本の「はじめに」に書かれている編者の期待通り、元祖『土佐日記』は「思っていたよりもずっと面白い」作品でした。
 
(12月21日)
 先日、東京出張のときに少し時間があったので、上野の国立西洋美術館で開催中の「アルブレヒト・デューラー版画・素描展」を見てきました。美術書によると、アルブレヒト・デューラー(1471-1528)はドイツルネサンス期に活躍したドイツ美術史上最大の画家ということですが、その版画も見事なものです。

 有名な《メランコリア(1514年)》や《騎士と死と悪魔》(1513年)など是非見たい作品がありましたが、もう一つのお目当てはデユーラーの星図です。二枚の木版画《北星天図》と《南星天図》が展示場の最後に展示されていました。約45cmx45cmほどの大きさで、おなじみの星座絵、いわゆるギリシャ星座絵が線描ですっきりと美しく描かれています。(インターネットで「Durer’s Celestial Map」で検索すると画像が見つかります。)

 《南星天図》の隅には銘文があるのですが、解説によると左下の銘文は「ヨハネス・シュタビウスが企画し/コンラート・ハインフォーゲルが星図を決定し/アルブレヒト・デューラーが星図を描いた」ということです。古星図の解説書(*)によると、シュタビウスとハインフォーゲルはニュルンベルグの数学者・天文学者で、シュタビウスが座標系を定め、そこにハインフォーゲルが星を配置したということですが、トレミーのカタログをもとに、約1000個余りの星が記されているということです。

 星座絵は裏返しになっていて、天球を外から見た図、あるいは天球儀を平面に展開した図になっていますが、古い星図ではしばしば裏返しの図が見られます。

 以前、同じ国立西洋美術館の特別企画「ドレスデン国立美術館展」(2005年)のときにデューラーの「星図・北星天」「南星天」が展示されていましたが、そのときは美しく着色されていました。今回はモノクロですが、版画なのでプリントされたものがいくつもあるようです。今回の展示はオーストラリアのメルボルン国立ヴィクトリア美術館所蔵のものでした。

 印刷された星図としては最も古いものだそうですが、後世の星図絵に大きな影響を与えたということです。今からおよそ500年前の作品ですが、時を超えて楽しむことができます。

 今回、見上げるような巨大な木版画《神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の凱旋門》が展示されていましたが、デューラーの版画には小さな細密なものも多く、あまりに細かいので拡大鏡が欲しくなります。良く見ると、小さな版画の中に宇宙が閉じ込められているようす。

 国立西洋美術館は上野駅のすぐそばにあるので、列車の待ち時間があるときにちょっと立ち寄ってみます。最近は、シニア料金(常設展示が無料)を適応してもらえるようになったので、一層入りやすくなりました。馴染みのなかった古典絵画や宗教画なども、何回も見ているうちに、何となく見慣れてきて興味が持てるようになります。仙台市天文台の展示はどうでしょうか。

「デユーラーの版画展」は2011年1月16日(日)までですが、見に行かれたときは《北星天図・南星天図》の木版画もお忘れなく。

(*)Nick Kanas著、“Star Maps - History, Artistry, and Cartography”, Praxis Publising, 2007年。

第7回<前編> こうじ(詩人)→まこと(天文学者)へ

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まことさん、こんにちは。

「秋は、忘れていたものを思い出す季節」ほんと、そうですね。

実は今年になって、引っ越しを計画して、ちょこちょこと進めてきたのですが、あの猛暑のせいで、なかなか捗らず、ようやくこの2ヶ月くらいで片づけを再開しました。そうなるとどうしても自分の過去のものと向き合わなきゃいけなくて、それはそれで、立ち止まってしまいます。

過去を振り返るのは、僕の得意技でもあるのですが(過去にはなにかあるのではないかと、つい思ってしまうのです)、さすがにこれではいけないと思い、いろいろなものを片っ端から、捨てています。

中でも、大量のカセットテープが出てきた時は、ほんと途方にくれました。もちろん、音楽を録音したものもたくさんあるのですが、自分のラジオ番組を録音したものがたくさん出てきたのです。それは記録としてはちょっとは貴重かもしれませんが、再生する機械を持っていないので、聴くことはないと思うと、なんとも言えない気持ちになりました。

今は、ラジオの収録はもちろん、作品などもすべてデータです。わずか数年とはいえ、自分の仕事の中にもいろいろ変化していることはあるんだなぁと思いました。

カセットテープ、やっぱり捨てようかなと思っています。

今、ぼくの部屋は宇宙をひっくり返したみたいになっています。

無事に片付いたら、ぜひ、遊びにきてください。
 

 
「秋の月」と「春の月」の歌の話、おもしろいですね。歌自体の味わい方も違いますが、そもそも同じ月なのに、季節によって、違うものだと感じるのが、とても不思議です。もちろん、それは月だけじゃないけど、やはり月の存在感は別格だなとこれを書きながら、夜空を見上げ、実感しています。
 
ぼくも以前の作品の中で『月は表情を変えたりするけど もうずっとそこにいる』と書いたことがあります。その時は、表情を変えるのは月ではなく、自分、もしくは自分の心(感情)の方ではないかと、とても悩んだのを覚えています。そして、さんざん悩んだ末に、そのフレーズにしました。それは、今の自分ではなく、子供の時に月をみて思ったことをそのまま書こうと思ったからでした。

...望遠鏡で月を見たことないです。というか、こんなに連載したり、ライブに行っているのに、天文台で望遠鏡から空を見たことがありません。なので、今度ぜひ見てみたいです。いろいろ教えてください。
 
ぼくは子供の頃、自分が大人になる頃には、月に行けるようになっていると勝手に決めつけていました。それだけじゃなく、わからないことのほとんどがわかるようになっていると思い込んでいました。で、実際、大人になってみると、月に行けるどころか、すぐそばのことすらもわかっていません。これは一体どういうことなのでしょう。。。
 

 
話はちょっと変わりますが、最近ひょんなことから、JAXAの笠原さんという方と知り合いました。そして、何回かメールのやりとりをして、東京に行く用事があったので、神奈川県の相模原にある宇宙科学研究所に行って、お会いしてきました。

メールのやりとりはあったものの、初対面でしたし、宇宙科学研究所ですし、予定があったので時間はあまりないしで、かなり緊張しましたが、とても刺激的で楽しい時間でした。

最近は天文台に行ったり、この連載があったりと、ぼくの中で星や宇宙はちょっと身近なものになった気がしていたのですが、またしても、果てしない物語の入り口を見た気がして、心がフワフワしました。

でも、まことさんや笠原さんと話していると、自分が詩人という生き方を選んだことが当たり前のように思えてくるのです。どうしてか、わからないのですが...。

特別に「あかつき」から見た地球と月の映像を見せてもらいました。ぼくはこの星に住んでいて、この月のことを詩に書いているんだな、と思うと、とても、とても神秘的な気持ちになりました。
 

 
「だいちょう過敏症」の話、おもしろいですね!ぼくは「こうじ過敏症」ではないけど、飼っている犬の名前が「ミルク」なので「ミルク過敏症」かもしれません。テレビを観てて「ミルク」と聴こえたりすると、つい反応してしまいます。ミルクも時々反応します。聴こえているのかな...。

確かに、自分のことを名前で呼ぶことはないですね。(女性はそういう方いますね)でも、ぼくは「これは武田こうじかな」とか「武田こうじじゃないかな」とか考えたりはします。で、そんなことを気にしている時の仕事や活動は、ロクなことにならないことが多いです。つねにオリジナルでいることは、難しくもあるし、簡単でもあります。

あー、長くなってきてしまいました。『薔薇の名前』の話も興味深く読みました。映画は観たことがあったのですが、本は読んだことないので、読んでみたいと思います。

(11月13日)

第7回<後編> まこと(天文学者)こうじ(詩人)

makotokao.jpgこうじさん、お元気ですが。引越し計画は進みましたか。

カセットテープの話、ぼくもこうじさんと同じような経験をしています。数年前、定年を前に「古い物」を整理したら、若かりし頃の「化石・遺物」がたくさん出てきて処置に困りました。カセットテープが詰まった段ボール箱もいくつか出てきたのですが、もう一生聴くことはないだろうと思いつつ、処分保留のままです。実は、処分に困っている「大物」がもう一つあるのですが、LPレコードです。若い頃に生活費を削って買ったもので、300枚ほど残っていました。おもにクラシックとジャズですが、「名盤」となったものも多く、捨てるに捨てられず化石化しています。その後、オーディオはLPからCDに変わり、ぼくもCDを聞くようになりました。そして、少しくやしい思いをしながら、同じレコードのCDを買うことになりました。



昔の話は長くなりますが、歳をとると物だけでなく過去の記憶も蓄積し、過去と現在を行き来するのに時間がかかります。このごろ、未来志向とか、「前向きに」ということが強く言われ、過去にこだわることは嫌われますね。でも、もし現実に即して考えたり、知恵や教訓を得ようとすれば、材料は過去にしかありませんよね。

未来について考えたことを振り返ってみると、都合の良い願望であったり、根拠のない予想であったり、得体の知れない不安であったり、内容が薄かったような気がします。過去につながらない思考は虚しいようです。

こう話していると、ボクは相当「後ろ向き」のようですね。昔、手漕ぎボートで遊んだことを思い出しますが、後ろを見ながらオールを漕ぎ、時々前を振り向いて目的地を確認して進む、ぼくの人生もそんな感じがします。

☆☆

天文学も、実は過去にこだわっています。天文学の大きなテーマは「宇宙の構造と進化」の解明、宇宙はどのようにして現在のような姿になったか、言い換えれば宇宙の「自分史」を書き上げることです。様々な理論やシナリオが提案され、宇宙の過去のデータによって検証されます。歴史学や考古学のようですね。

宇宙は広いので、遠方の天体の光が到達するまでに時間がかかります。つまり、遠方に過去を見ることになります。しかし、遠方の天体は暗くなって見えにくくなるので、大きな望遠鏡が必要になります。現在、口径10mもあるような巨大な望遠鏡が宇宙を観測していますが、最初の星や銀河がどのように誕生したか、およそ100億年前の宇宙の姿をとらえつつあります。天体望遠鏡は宇宙の過去を見るタイムマシンと言えるかもしれませんね。

☆☆☆

過去の記憶から自分を再発見する、これは文学の大きなテーマですね。マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』なんかが代表的な例ですね。20世紀を代表する小説ということで、その昔、ぼくも読んでみたいと思ったのですが、最初の数ページで挫折しました。

それからずいぶん時間が経ちましたが、実は、目下『失われた時を求めて』(鈴木道彦訳、集英社、全13巻)に再度挑戦している最中です。やっと第5巻にたどり着いたところですが、ともかく5巻まで読み続けることができたのはいくつか理由があります。

一つは同行者「プルースト友」です。ちょっとしたきっかけで、読んでみようと言うことになりました。そして、時々、今どこを読んでいるかを連絡し合うことにし、もし先に進んでいたら、読む速度を遅くして相棒が追い付くのを待つことにしました。二人で旅をするようなものです。時々、一杯飲みながら話題にすることはあるのですが、普段は感想を交換したり、催促することなく、今どこにいるかだけを確認して粛々と読み進みます。忙しくてなんとなく中断しても、連絡があると、再開するという具合です。こうして、一人では読み続けられないような超長編ですが、細々ながら読み続けることができそうな気がします。
もうひとつの理由は、読みやすい新しい翻訳です。最近、新しい翻訳によって読みやすくなった古典がたくさん出版されるようになり、昔挫折した本を新訳で再挑戦しています。先日、ジャン・ポール・サルトルの自伝といわれる『言葉』(澤田 直訳、人文書院)を新訳で読んだのですが、幼少の体験が詳しく記され『失われた時を求めて』と通じるものがありました。解説によると、サルトルもプルーストを熱心に研究したということで、なるほどと思いました。

サルトルはボクが学生時代、実存主義哲学者・小説家としてたいへん人気があり、来日して講演やテレビに出演したりしました。ノーベル文学賞を辞退・拒否したり、知識人としての社会参加やパートナーのシモーヌ・ド・ボーヴォワールとの関係など、大いに関心のある人でしたが、その著作には歯が立たず、しゃぶるだけでした。今、改めてしゃぶってみると、するめのように味がしみ出てきて…、とても新鮮に感じました。

☆☆☆☆

こうじさんは、まだ望遠鏡で月を見たことないそうですね。残念…、と思ったのですが、案外そうではないかもしれません。というのは…。

もし、こうじさんが初めて望遠鏡で月を見たらどんな印象・感想を持つか、興味あるところです。もし、そのときに得たインスピレーションや感想を新鮮なうちに言葉で表したら、いい詩ができるのではないでしょうか。どんな詩ができるか勝手に楽しみにしています。天文台にいらしたとき、もし月が出ていれば小望遠鏡ですぐにお見せできます。声をかけてみてください。

街はクリスマス飾りで賑やかですね。天文台でもささやかな飾りつけをしました。寒くなりますが、お体を大切に。

(12月3日)


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