台長コラム ときどき土佐日記

2010年11月アーカイブ

第6回<前編> こうじ(詩人)→まこと(天文学者)へ

 

kouji.jpgまことさん、こんにちは。
ようやく季節が変わりましたね。
まことさんの秋はどんな感じですか?
 
先日、仕事で出会った人に、この連載を楽しみにしていると言われました!
とても嬉しかったです!
 
それにしても「とさまこと」を「うそからでたまこと」と言ってからかうとは、子どもの発想はすごいですね。まことさんの日記を読んで、子どもの頃の友だちのあだ名を思い出しました。ほんと、ぶっ飛んでいるのばかりで、どうしてそんなあだ名になったのか、今となっては謎のものもあります。中には、あだ名は思い出せても、本名が思い出せない友だちもいます(笑)。今の子どもたちって、あだ名とかつけたりするのかなぁ。。。
 
ちなみに、ぼくは「武田漢方胃腸薬」とかそんなのでした。(子どもっぽいですよねー。笑)たしかに「こうじえん」とかだったら、今の自分につながる感じで良かったんだけどなぁ。
あっ、ふと思ったのですが、ぼくは基本的に「武田」や「武田さん」と呼ばれることが多かったんですよね。最近になって「こうじさん」と呼ばれることが多くなったのですが、年齢とかに関係しているのかなぁ...。まことさんはどうでしょうか。
 
改めて考えると名前って、不思議です。ぼくは、詩の名前(タイトル)をつけることで、いつも、すごーく悩みます。そして、そんなのいらないんじゃないかって、いつも思ってしまうんです。でも、名前のない作品は、いつのまにかどこかに消えてしまいます。やはり、名前をつけて、はじめて自分と一緒にいてくれるものになるんでしょうね。でも、ほんといつもすごく、悩みます。きっと、この悩みにはなにか、詩に対する深いものがあるんだと思います。
 
星の話を聞いてても、名前のことがとても不思議に、神秘的に思えます。
 
いつも当たり前に呼んでいますが、「月」なんて、ほんとすごいと思います。
もし「月」が違う名前だったら、と思うと、きっと世界のいろんなことが変わってしまうんだろうな、と妄想してしまいます。
 
この季節、やはり月をよく見上げるので、こんな感じで、まことさんにつなぎたいと思います。
 
 
そして
ほんとのことって
どこに どれくらいあるのかな?
 
ほんのささいなうそ
ほんとのことより 好きなんだ

(10月8日)


第6回<後編> まこと(天文学者)→こうじ(詩人)へ

makotokao.jpg  こうじさん、急に秋めいてきましたね。秋というと、まずは食欲の秋、そして紅葉、芸術・音楽・読書の秋・・・。途中まで読んで放置していた本を開いたり、「枯葉」のCDを探したり・・・、秋は忘れていたものを思い出す季節ですね。

 秋は、空が高く澄みきって日没も早くなり、星が良く見えるようになるのも楽しみです。月の光も冴えてきますね。今年は10月20日が十三夜、23日が満月です。「月」は秋の季語だそうですが、秋の月と言えば、大江千里の歌が思い浮かびます。

「月見ればちぢにものこそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど」

 幼少の頃、百人一首にあったので、意味も分からずに覚えた歌ですが、いつからか秋の月というとこの歌が浮かんでくるようになりました。

 大江千里には春の月の歌もありますね。秋の月と比べると、その対比がとても面白いのですが、次の歌です。

「照りもせずくもりもはてぬ春の夜の おぼろ月夜にしくものぞなき」

 おぼろ月夜というと、『源氏物語』に朧月夜の君が登場しますが、その名前の由来がこの歌だったのですね。

 『源氏物語』を読みながら感じたのですが、月がとても重要な役割を果たしていますね。ここぞという場面に月が登場し、そのときの情景や時の経過を表現したり、人の心情を代弁したり引き立てたり、月が活躍する場面がいくつもありますね。『源氏物語』はボクにはチョット刺激が強すぎるのですが、月の光を頼りに読むと少し穏やかに読めるような気がしました。

 ところで、こうじさんは望遠鏡で月を見たことがありますか。今から400年前、ガイレオが初めて望遠鏡を月に向けてクレーターを発見したということですが、小望遠鏡でよく見ることができますよ。

 月のクレーターはかけ際に良く見えます。かけ際は、影ができて月面の起伏がよく見えるからです。ですから、月面に影ができない満月のときはクレーターが良く見えませんが、失望しないで下さい。

 子供の頃、月のクレーターを初めて見た時、宇宙をとてもリアルに感じ、世界が広がる思いがしました。大人になって今考えることは、「この世とあの世の間には宇宙がある。手は届かないけれど、現実の世界。あの世に行く前に十分に楽しみたい!」

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ちょっと一休み
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 こうじさんは「こうじさん」と呼ばれることが多くなったそうですが、ボクの方は天文台で「台長」と呼ばれています。いまだになじめないのですが、来館者からも「台長って何ですか」と聞かれることがあります。

 「台長~!」と遠から高い声で呼ばれたり、「台長、ちょっとご相談が」と低い声が近づいたりすると、「ボクのことだ!」とハッとすることがあります。

 「だいちょう」はパソコンで変換すると、まず「台帳」か「大腸」が出てきます。スタッフルームで仕事をしていると、時々「アラ、台帳と合わないわ!」という総務の女性の声にドキッとすることもあります。耳の方がダイチョウ過敏症のようです。

 実は、「まことさん」と呼ばれることがときどきあります。こうじさんから「日記」が返ってきたとき、広報担当の若い女性スタッフから「まことさん、こうじさんから返事がきましたよ!」と教えられます。うれしい瞬間です。

 呼び名・名前で不思議に思うのは、名前を呼ばれたときは、「私だ!」と強く意識するのですが、独りで自分のことを考えるとき、自分の名前を意識することはほとんどないような気がします。「私は私」で、「私はまこと」と考えることはほとんどないようです。自分で自分の名前を呼ぶときがあるとすれば、どんなときでしょうか。

 名前にはいろいろ面白いことや不思議なことがありますね。本の名前もいろいろですが、「名前」で面白かったのは、ウンベルト・エコーの長編小説『薔薇の名前』(河島英明訳、東京創元社)です。

 舞台は中世北イタリアの僧院、謎の連続殺人事件が発生し、そこを訪れたウィリアム修道士が秘密を解き明かしていきます。後に弟子のアドソが回想して記した形になっていますが、様々な物語が展開します。

 この本で面白いのは、この僧院には立派な図書館(「キリスト教世界最大の文書館」)があり様々な本が登場します。「本の本」のようですが、最後に、火災のため全て焼失してしまいます。ウィリアム修道士もボクも大変落胆してしまいました。
それから、ウィリアム修道士がアストロラーベを使って天体観測をしたり、渾天儀(天球儀)が凶器として使われたり、レンズ(眼鏡)の話など、天文学や科学史的にも興味深い場面があります。

 この物語は世界的にベストセラーになったそうですが、同じ題名で映画化され、ショーン・コネリーがウィリアム修道士に扮して好演しています。図書館の火災で焼死したと思われたウィリアム修道士が弟子アドソの前に煤にまみれた姿を現します。弟子アドソが駆け寄ると、焼け焦げた僧衣の下から数冊の本が落下するのです。感動的な場面でした。

 ところで、この本の題名がなぜ「薔薇の名前」なのかよく分からないのですが、いろいろな解釈や議論があるようです。最後は次のような謎めいた言葉で終わります。

「過ぎにし薔薇はただ名前のみ、虚しきその名が今に残れり。」

少し長くなりました。ボクもここで終りにします。

(10月20日)

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