台長コラム ときどき土佐日記

土佐日記アーカイブ

第4回 七夕の星

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【河北新報「ときどき土佐日記」2016年7月掲載原稿 ~原案~】

 

天文台では、夏が来れば七夕、織女と牽牛の伝説と星まつりで盛り上がります。私にとっては、七夕は幼少の頃から「ささの葉さらさら のきばにゆれる/お星さまきらきら きんぎん砂子」と歌う童謡「たなばたさま」とともに、お馴染みのなつかしい年中行事でした。

私が小学生の頃(1950年代の関東地方)、この童謡のように、教室で短冊に願い事を書いて笹に括り付け七夕の笹を作りました。そして、七夕の次の日、皆で小学校の近くの川に流しに行ったことがありました(現在では許されませんが!)。七夕の笹は、川を下ってやがて天に昇り、願いが天に届くということでした。夏休みに川遊びをしていると、ときどき川岸に引っかかった笹を見つけることがありましたが、幼心に「見てはいけないもの」を見てしまったような気がしました。

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【河北新報「ときどき土佐日記」2016年6月掲載原稿 ~原案・補足~】

 

「宇宙」という言葉の使い方について、以前から気になっていたことがありました。

「宇宙」という言葉は中国に古くからある空間・時間の広がりを表す言葉だそうですが現代では主な使い方が二通りあります。英語では、それぞれユニバース(Universe)とスペース(Space)という異なる言葉が使われています。

ユニバースは古くからある言葉で、あらゆるものを含む空間・時間の広がり(全体)で、本来の宇宙です。スペースは地球近傍の宇宙空間で、戦後宇宙開発とともに広く使われるようになりました。

航空宇宙業界では地上100㎞以上の大気圏外を宇宙と呼ぶそうですが、英語ではスペースです。地上約400㎞を飛行するおなじみの国際宇宙ステーションは英語ではインターナショナル・スペース・ステーション(International Space Station)、略してISSです。スペースでは宇宙飛行士、人工衛星あるいは探査機などを使った様々な活動が行われ、宇宙産業・宇宙ビジネスあるいは軍事利用などが追求されています(注1)。スペースの広がりはおよそロケットや探査機が到達できる範囲で、時間的にも人間が実感できるスケールです。

もう一つの宇宙、ユニバースはスペースを含む人間の感覚を超えた広大な空間・時間の広がりで、天文学の領域です。人類の歴史においては、神の世界、あるいは人智を超えたはかり知れない世界と考えられた時代が長く続きましたが、現代では科学の力、自然の法則によって理解できる世界です。私にとって、ユニバースは、スペースと異なり、手が届かない操作できない「生の自然」が魅力で、興味深い探求の対象です。

第2回 火星接近

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【河北新報「ときどき土佐日記」2016年5月掲載原稿 ~原案~】

 

以下の文は、昨年(2016年5月)の火星接近のときに記したものです。現在(2017年5月)、火星は太陽の彼方の遠方にあって、殆ど見ることはできません。次の接近は2018年7月31日になります。

 

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1705_kasei.jpg図1:火星(ハッブル宇宙望遠鏡撮影)©NASA

 

夜が更けると東の空に赤く輝く星が昇ってきます。火星です。火星はおよそ2年ごとに地球に接近しますが、今回(2016年)は5月31日に最も近づきます。ギリシャ/ローマ神話では、火星は戦いの神アーレス/マルスとされていますが赤い色が戦火や血を連想させるのでしょう。しかし火星が赤いのは地面に含まれる酸化鉄(鉄錆)の色で戦いや血とは関係ありません。地球でも同じような赤色の地面が各地で見られます。

 

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【河北新報「ときどき土佐日記」2016年4月掲載原稿 ~原案~】

 

古代の哲学(アリストテレスの哲学など)では、月から始まる天上界は神聖にして完全無欠の不変な世界であり、一方、地上は変化と混乱の不完全な世界でした。天と地は最もかけ離れた世界として峻別され、その類似性を唱えることなどもってのほかでした。そのような時代が古代から中世にかけて長い間続きました。月も完全無欠神聖な球体と考えられていたので、ガリレオが望遠鏡を月に向け、その表面に地上と同じような凸凹を見たなどということは「もってのほか」というわけです。

ということで、「天と地」は最もかけ離れたことを対比させる言葉です。その隔たりをウィリアム・シェークスピアは、ハムレットが親友ホレイショーに向けた台詞で「ホレイショー、天と地の間にはお前の哲学など思いも寄らぬ出来事がある」と表現しています。

幼少の頃、私は宇宙に興味を持ち、その天と地の間に宇宙という遊び場を見つけました。私にとって宇宙の入り口は月でしたが、今も最も身近な天体で、見るたびにいろいろなことが思い浮かびます。

もし天と地が入れ代ったら、それは思いもよらぬことですが、それが20世紀になって実際に起こったのです。

 

earthrise_lo1_big.jpg

図1:月から見た最初の地球(1966年ルナー・オービター1号が撮影)

©The Lunar Orbiter Project, NASA

 

 

仙台市天文台広報担当・熊田美波

 

土佐台長は、昨年(2016年)4月から河北新報紙(毎月第一土曜日夕刊)に「ときどき土佐日記」と題して短文(随想)を連載させていただいておりました。市民からの要望などもあり、ここに再録したいと考えていたところ、河北新報社から快諾を得ましたので、ここに再録することとになりました。

この原稿執筆にあたり、台長はいつも文字数がオーバーし文字数の調整に苦労していたようでした。

実は、台長が最初用意する原稿は、最終稿よりかなり長いもので、それを削って最終原稿を仕上げているということでした。そこで、短縮する前の原稿の公開をお願いしたところ快諾を得ましたので、「原案」もあわせてここに掲載いたします。河北新報紙の文章を補うものとして興味深いものがあるとおもいますので、河北新報紙の文章とあわせてお読みいただければ幸いです。

 

火星人の未来と地球人の未来(その2)


火星人が地球を観察して最も注目したのは、地球上どこの国の言葉にも「平和・思いやり・助け合い・分かちあい・友愛...」といった美しい言葉があることでした。このような言葉を聞いて火星人は地球人と仲良く共存できるのではないかと考えたのです。これが地球移住計画の発端でした。しかし、注意深く観察すると、必ずしも言葉どおりではありませんでした。特に民族や国が異なると、これらの言葉とは全く反対のことがしばしば起こるのです。宇宙から見ると、そのような美しい言葉が地球全体で実現しているわけではないことを知って火星人は失望しました。


火星人が注目したことは他にもいろいろありましたが、なかでも地球人の資源や富の配分は、火星人には理解しがたいことでした。火星では、資源や富は必要な量を分かち合って出来るだけ無駄の無いように生活してきました。それは、資源の少ない火星で皆が生きのびるためには特に大切なことでした。しかし、地球人は必要な量をはるかに超える資源や富を少数者が独占しています。そのため浪費が多く、貧富の差が極端に大きいのです。地球で最も豊かとされるアメリカという国の場合、全体の5%未満の人たちに、全アメリカの半分以上(約60%)の富が集中しているというのです(注2)。国と国の間にも大きな格差があります。火星人には理解できないのですが、地球では資源や富を無制限に独占することが許され、さらに、独占や格差を固定化するような政治・経済システムがあるようです。地球は火星に比べるとはるかに自然や資源の豊かな惑星なのになぜ貧しい人々が多いのか、火星人にとって理解し難いことでしたが、その理由がここにあるのでしょうか。


貧しい人は富が少ないだけでなく、生活や人生における選択の余地も限られ、劣悪な条件でも過酷な労働に従わざるを得ません。昔の奴隷制度が形を変えて今も残っているようです。もし、火星人が地球人に受け入れられたとしても、より厳しい奴隷的状況に置かれるのではないかと恐れます。体力のない火星人には耐えることが難しいでしょう。

 

火星人にとってもう一つ心配なことは、地球人による核の利用です。ひとたび核兵器が使われたり、あるいは原発が大事故を起こしたりミサイル攻撃を受けたりしたら、地球人の手に負えない状況になり、それが長期間続くことになります。火星人の手にも負えません。その危険性は地球人もよく知っているようで、警備や機密保持、あるいは市民の監視が強化されています。また、地元には「理解」を得るために膨大なお金が注がれています。その結果、社会や人間関係に信頼や自由が失われ、民主的な地域社会が崩壊します。さらに原発から生じる放射性廃棄物の安全な処理方法もまだ地球人は知りません。放射性廃棄物は厳重に隔離され、百年も千年もその先まで厳重に管理されねばなりませんが、今の地球人にそれができるかどうか疑問です。火星人にとってもそれらを追跡することは不可能です。ということは、もし100年先に可能になったとしても、火星人の地球移住は大変危険なものになる可能性があります。


地球は豊かな惑星ですが、地球人がこれまでのような生活や争いを続ければ、遅かれ早かれ資源が枯渇し、さらに地球温暖化や人口爆発によって環境や人間関係が破壊され、地球人の生存は危うくなるでしょう。今回の地球接近では、世界各地で紛争や緊張を高めようとする動きが活発で、一層の危機感を覚えました。火星人は、自分たちだけでなく、地球人の未来もたいへん心配しているのです。火星人は忠告します。もし、子孫のために少しでも生存の可能性を伸ばしたいなら、地球人はもっと宇宙的な眼で自分たちを見るべきです。「宇宙を身近に!」。



(注2)小林由美『超・格差社会 アメリカの真実』日経BP社、15頁。


◆広報担当からおことわり

この「お話し」は台長の「空想」による創作です。火星人については、これまでに何回か探査機が火星に着陸して調査していますが、その存在も、かつて存在したことを示す痕跡も見つかっていません。
 (台長からひと言。この「おことわり」は、「読者がこのお話を事実と誤解してはいけない」という広報担当者の老婆心...。老婆心ではなく、優しい乙女心、思いやりから記されたものです。)


火星人の未来と地球人の未来(その1)


4月に地球に最接近した火星は、まだ日没後の南の空に赤く輝く姿が目立ちます。5月末には、逆行から順行に転じ、そろそろ地球から遠ざかる準備をしているようです。

火星は、昔から占星術などで戦いの星、不吉な星とされていたようです。赤い色が血を連想させるからでしょうか。

このところ、世界中いたるところで戦争・紛争、災害、事故・事件、あるいは人種差別や排外主義勢力の進出など、気になることがたくさんあります。もし占星術が信じられていた時代だったら火星の置き土産と解釈されたかも知れません。


火星は地球のとなりを公転する惑星ですが、地球の公転周期との関係で、およそ2年ごとに地球に近づきます。望遠鏡が発明されると、火星の接近ごとに詳しい観測がおこなわれ、新しい発見がありました。天文学の発展とともに占星術を信じる人は減りましたが、火星表面の模様やその季節変化などから、火星には高度な文明を持った生命、火星人が存在すると考える人も現れました。


およそ100年あまり前、イギリスの作家H・G・ウェルズは、環境悪化によって火星に住めなくなった火星人が地球に移住すべく地球侵略を計画したと空想し、SF小説『宇宙戦争』(1898年)を著わしました。『宇宙戦争』の冒頭、「...。この地球が、人間をはるかに凌駕する知能を持ちながら人間と同様にかぎりある命しかもたない生物によって周到綿密に観察されており、人間がさまざまな営みにあくせくするあいだ、人間が顕微鏡で一滴の水中に群がり繁殖する微生物を丹念に調べるのに匹敵する精度で、観察と研究はつづけられているのだ...。」(注1)とあります。そして、ついに火星人は地球侵略を開始し、地球を徹底的に破壊し尽くしたのでした。

『宇宙戦争』はその後も世界中(地球中)で読み継がれたのですが、実は、火星人は地球移住を思いとどまったのです。その理由は次のようなものでした。火星人はウェルズが想像したような無慈悲で残虐な生き物ではありませんでした。極端に少ない資源とエネルギーを分かち合い、助け合い、究極のECO生活を営む、思いやりのある優しい生き物だったのです。だからこそ資源が極端に少なく、環境も厳しい火星で生き延びることができたのでした。

そのような火星人が見た地球は、国という単位に分割され、国境や国益をめぐって争いが絶えることがありません。火星には、国境もなければ、国益という概念もないので、火星人には理解しがたいことでした。火星人は、地球の至る所で勃発する戦争や残虐行為に恐れをなしていたのです。もし、地球に移住したとしても、地球人が歓迎してくれそうにありません。小さな無人島の帰属をめぐって国を挙げて争う地球人が、火星人のために生活の場を提供してくれるとはとても思えません。さらに、出自や肌の色が違うだけで差別されるような社会では、地球人とはだいぶ体型の異なる火星人はどんな扱いを受けるでしょうか。見世物にされる恐れもあります。


実は、ウェルズの空想に反して、火星人は「人間をはるかに凌駕する知能」を持っていたわけでもなく、また戦争も得意ではなかったのです。もし、戦争などをしていたら、資源の少ない過酷な環境の火星では、火星人はとうの昔に絶滅してしまったはずです。火星人にしてみれば、少ない知恵を絞って、なんとか生きる道を探し続けてきたのでした。その一つが「戦争をしないこと」でした。だから、もし地球に移住するために地球人と戦わなければならないのなら、移住を中止する他ないと考えたのです。そして、彼らが火星であと何年生存できるかを再検討しました。その結果、今のような生活を続ければ、少なくとも数百年は火星で生きていけることがわかりました。と言うことで、ウェルズの空想に反して、火星人は地球移住を延期し、地球の観察を続けるとことにしたのです。


(つづく)


(注1)H・G・ウェルズ『宇宙戦争』中村融 訳、創元SF文庫。


◆広報担当からおことわり

この「お話し」は台長の「空想」による創作です。火星人については、これまでに何回か探査機が火星に着陸して調査していますが、その存在も、かつて存在したことを示す痕跡も見つかっていません。

(台長からひと言。この「おことわり」は、「読者がこのお話を事実と誤解してはいけない」という広報担当者の老婆心...。老婆心ではなく、優しい乙女心、思いやりから記されたものです。)


名刺の使命

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 先日、天文台スタッフの赤いつなぎのユニフォームをご紹介しました。初対面のお客さんがあった時に最初に話題になりますが、次に話題になるのが名刺です。
 いつもは、名刺が私をお客様に「紹介」してくれるのですが、今回は、私が私の名刺を紹介します。

 初対面の挨拶はいつもうやうやしく名刺の交換で始まります。名刺の交換には「作法」があるようで、特にお仕事で来られた方は実にスマートに名刺を差し出され、私の名刺を受け取ってくれます。新入社員は、社員教育の最初に名刺交換の作法を習うと聞きましたが、私は、職業柄(?)そのような「教育」を受ける機会が無かったので、名刺を無造作に差し出し、相手の名刺を無造作に受け取ってしまいます。
 実は、私は名刺の交換が少し苦手なのです。「作法」を知らないことに加えて、私の名刺が少し変わっているので、渡すのがちょっと恥ずかしく、ためらってしまうのです。

 私の名刺の表には、左上に名前と肩書き、下の端に小さな文字で1行メールアドレスが印刷されています。活字はそれだけですが、中央に仙台市天文台の矢印型ロゴ(VI=Visual Identityと言います)とその矢印の先にピンボケの赤いリンゴが印刷されています。名刺を見て怪訝な顔をされる方が多いのですが、「きれい、すてきな名刺ですね」とお世辞を言ってくれる方もあります。
daichomeishi1.jpg このリンゴの写真、上下にぶれてピンぼけなのですが、そこに注目した人は「落下するリンゴ、ニュートンのリンゴでしょう!万有引力の法則ですね」と言ってくれます。「正解!」ですが、それだけではありません。
 名刺を裏返すと、黒地に白抜きで住所と電話番号、ウェブサイトのURLが小さな文字で印刷されています。そして、たくさんの小さな白い点が見えます。印刷のムラかゴミのようですが,実は夜空の星々を表しています。しかも、実在の夏の星座が配置されているのです。中央上端の大きな白点はこと座のベガ・織姫、右下端にはわし座のアルタイル・彦星、そして左端にははくちょう座のデネブがあり、夏の大三角を作っています。仙台は七夕まつりの街・星の街ということで、七夕の星があしらわれているのです。daichomeishi2.jpg さらに、左下の隅に月らしきものが4分の1ほど顔を出しています。「これは何? この位置に月が見えることはあり得ない!」と思われた方は天文に詳しい方です。その通りですが、宇宙から見た仮想の月ということでご容赦ください。月のそばに2つの赤い点(小さな三角印)がありますが、この2点を結ぶ線を折目にして、隅の三角形を名刺の表に折り返すと、月とリンゴが重なります。つまり「月もリンゴも、地球の重力・万有引力に引かれて落ちている」ということ表した「おち」というわけです。
daichomeishi3.jpg

 「名刺を折るのはちょっとためらわれる」という方も多いようですが、しばらく前にある県の知事選挙の後に起こった、いわゆる「名刺折り曲げ事件」が思い起こされるからのようです。県知事選挙が終わり、当選した新知事が庁内を挨拶回りしているとき、新知事の当選に反対の一人の県庁職員が、知事に渡された名刺を面前で折り曲げたのです。その後、この「不作法」に非難が殺到し「事件」になったのです。私もテレビの報道でその場面を見ましたが、その「作法」に驚きました。
 ところが、「名刺の隅を折る」習慣が西洋の上流社会にあったのです。プルーストの長編小説『失われた時を求めて』の中に出てきたのですが、当時のフランスの上流社界では、パーティなどで大勢の来客あるとき、主人に会うことができなかった訪問客が名刺の隅を折って名刺受けに置いて帰る、という習慣があったそうです。本人が来たという証拠、アリバイ(現場不在証明)ならぬ「現場存在証明・出席証明」というわけです。
 私も、自分の名刺でも折り曲げることに少し抵抗がありますが、こんな「蘊蓄」を言い訳に、名刺の隅を折り曲げながら説明します。
 こうして、月もリンゴも一緒に「落ち着いた」ところで、しばし本題を忘れて、話題が名刺から宇宙へ飛び出すこともあります。

 ここで、この名刺のデザインと天文台の使命・ミッションとの関係を説明しなければなりません。仙台市天文台では、施設の使命・ミッションをできるだけわかりやすい言葉で表そうと考え「宇宙を身近に」という言葉を選びました。天文台のモットーです。実は、この名刺も「宇宙を身近に」するためのツールになっているのです。

 名刺は本来「氏名」という情報を伝えることが使命ですが、私の名刺は本来の使命を「忘れて(?)」、「宇宙を身近に」という天文台の使命・ミッションを伝えようとします。そのためには、私が説明したように名刺を「紹介」しなければなりません。しかし、名刺の交換は短時間で終わり、「ヘンな名刺」という印象を与えただけで終わってしまうことが多いようです。
 ということで、今回は、私の名刺を詳しく紹介しました。これで、名刺はめでたく使命を果たすことができたと思います。

 ふだん名刺が話題になることはあまりないと思いますが、仙台メディアテークの館長・鷲田清一さんが「おしゃれな名刺」と題してすてきなエッセーを書いていらっしゃいます(『新編 普通をだれも教えてくれない』ちくま文芸文庫)。名刺から見えてくるその人の生き方や人と人のつながりを語っていらっしゃいます。名刺から広がる「人の宇宙」が見られます。一読をお勧めします。

仙台市天文台を訪問された方はご存知と思いますが、天文台のスタッフは赤いつなぎのユニフォームを着用しています。似合っているかどうか気になるところですが、新しいお客さんがあると、最初に話題になるのがこのユニフォームです。「良く似合う、宇宙飛行士みたいでかっこいい」とお世辞を言ってくれる人、「車の整備ですか」と揶揄する旧友、反応は様々です。

 若者やスタイルの良い人が着た姿は、たしかにかっこよく、あるいは「かわいく」見えます。しかし、私が「その気」になって鏡に向かうと、鏡に映った姿を適切に表現する言葉が見つかりません。やはり「油汚れがないのが少し不自然」でしょうか。

 実は、この赤いつなぎのユニフォームはARATAこと井浦新さんのデザインです。有名な俳優・ファッションモデル・ファッションデザイナーのデザインですが、しばらくの間、私はその「ありがたみ」を十分に理解せずに着ていたようです。

 先日、その井浦新さんがNHK・Eテレの「日曜美術館」に出演しているのを拝見しました。「日曜美術館」は昔からよく見ている好きな番組ですが、今年度からアラタさんがレギュラー出演するということ、うれしいニュースです。落ち着いた静かな話しぶりは、美術番組にふさわしく感じました。ということがあって、アラタめて(見て!)赤いつなぎのユニフォームを一層身近に感じています。

 ユニフォームは日本語では制服、制服といえば最も身近なものは学校の制服でしょう。学校の制服については、昔から生徒指導・管理の問題として、あるいはファッションの問題として様々な議論がありましたが、先日、今も制服が厳しくチェックされる学校の話を聞きました。

 そこで思い浮かんだのが、「毎年この季節になると、憂鬱になる。花粉症のせいもある。が、なによりもファッションがこの季節には、いつも管理の問題とからめて話題になるからだ。」という哲学者の鷲田清一さんの言葉です。これは『新編 普通をだれも教えてくれない』(ちくま学芸文庫)の言葉ですが、この本の中の「学校と制服1」(1996年)、「学校と制服2」(1997年)で学校と制服、服装に関する興味深い考察が述べられています。学校の制服を語るとき、ぜひお読みいただきたい本です。

 鷲田さんは、著作物を通じての「(片思いの)友だち」ですが、昔から敬愛している哲学者です。その鷲田さんが、今年度から仙台メディアテークの館長に就任されました。うれしいニュースです。

 ということで、井浦新さんと鷲田清一さんのニュースがうれしかったので、ユニフォームについて書いてみました。

 ユニフォームは任務や仕事を首尾よく遂行するための衣服ですが、私たちの場合、来館者に見てもらうものでもあります。まず、来館者が一目見てスタッフとわかり、近づきやすいこと。そして、天文台の施設や背景に調和し、来館者に好感を与えるものが望ましいと思います。来館者の声を聴くと、赤いつなぎのユニフォームはそのような要求に適合し、好評のようです。一安心して、ユニフォーム姿のスタッフを見ていると、次のようなことを感じました。

 ユニフォームは個性を薄めて画一化するものと思っていましたが、ユニフォームを着用することによって、むしろスタッフの人柄や個性が引き立ち、その違いがより明瞭に見えるような気がするのです。同じ包装の方が中身の違いがよく分かる、ということでしょうか。あるいはスタッフの意識が制服化されていないことの証明でしょうか。

 こう考えると、ユニフォームはスタッフの皮膚のようでもあります。そうだとすると、「われら赤色人種、赤いつなぎの新人類」ということになります。赤い顔はしていないのですが、酒好きの集まりと誤解されそうなのが心配です。(「誤解ではない」と影の声。)皮膚の色が問題ではなく大切なのは中身、皮膚を意識せずに各自の思いをのびのびと表現できればいいなと思います。

 天文台のユニフォームは、夏になると黒のTシャツと黒のパンツ(長ズボン)になります。黒一色、「ユニ黒」ですが、こちらは無名のブランドです。誤解のないように。以前、赤いつなぎのユニフォーム導入前に、黒のユニフォームについて「台長コラム」に書いたことがありました。「白と黒と天文台のユニフォーム」ですが、まだアーカイブで閲覧できるようです。参考まで。

 少し前のことですが、今年の年頭に「2013年のご挨拶」を展示室に展示しました(仙台市天文台のウェブページでも閲覧できます。「仙台市天文台について」>「台長からの2013年のご挨拶」)。仙台市天文台の今年のテーマは「うつす」で、天文学や宇宙に関係するいろいろな「うつす」を考えてみました。天文台では、今年は「うつす」をテーマにいろいろな活動を展開します。
 
 新年は新しい計画を立てたり手習いを始めたりするチャンスですが、新しい手習いを始め、すでに成果を上げている方も多いと思います。私の場合、新年を迎え「今年こそは」と考えているうちに「新年度」がやって来てしまいました。二度目のチャンス到来ですが、もう4月も半ばを過ぎてしまいました。パソコンに「しんねん」と入力したら「信念」と変換され、私の信念が問われているようで、パソコンの画面をナナメに見たりしています。

 実は、私にも毎年「今年こそ、今年度こそ」と思うことがいろいろあります。家族や友人に揶揄されることを恐れて秘密にしていますが、同時に浮かぶのが「今さら」と「六十の手習い」という言葉です。(後が続かなくなるので、「今さら」はちょっと棚上げにしておきます。)

 「六十の手習い」は、学問や習い事をするのに年齢制限はない、何歳になって始めても遅すぎることはないという意味が込められていて、「六十」は「七十」でも「八十」でもよいということです。心強い言葉ですが、そこで思い浮かぶのは白洲正子さんが、友人から聞いたという言葉です。「六十の手習いとは、六十歳に達して、新しくものをはじめることではない。若い時から手がけてきたことを、老年になって、最初からやり直すことをいうのだ」(『私の百人一首 愛蔵版』新潮社)。そこで、白洲さんも、若いころから親しんできた百人一首を改めて考えてみたい、ということでした。 

 話が長くなりそうですが、ここまでが「話の発端」です。

 「六十の手習い」の続きですが、私は1944年生まれ、いつの間にか60歳台後半、シニアと呼ばれる歳になりました。そこまで「長生き」すると、今となっては役に立たないモノがたくさんたまりました。そろそろ身の回りのモノを整理しておかなければと思うのですが、そんな中で処理に困るのが本です。

 古い本から整理しようと思うのですが、むかし苦労して勉強した本や、大きな出費に懐を痛めて買った本などは簡単には「整理」できずにいます。そんな本をパラパラ開くと、難しくて歯が立たずに途中でギブアップした本が、今読むと意外にスラスラ理解できたり、意味が分からずつまらないと思っていた本が、今読むと意外に面白かったりします。ということで、処分するつもりだった古い本を段ボール箱から掘り出して本棚に並べ、再チャレンジするつもりになっているのです。

 そこで改めて白洲さんの「六十の手習い」を考えるのですが、「若い時から手がけてきたこと」だけでなく「若い頃トライしてギブアップしたこと」を追加したくなります。

 天文学や宇宙に興味を持つ人は多いようですが、実生活からは少し距離があるようです。時々、自分も天文学が好きで天文学を勉強したいと思ったけれど、天文学では食べていけないのであきらめたとか、大学で物理学を学んで天文学を学びたいと思ったが、天文学のコースが無かったので学ぶことができなかった、というような話を聞きます。天文学に限らず、若い頃トライしたいと思ったけれど、あるいはトライしたけれど、「諸般の事情」であきらめたという話はよく聞きます。

 「六十の手習い」は、いずれ再チャレンジと思っている方、忘れていたそんな気持ちを思い出した方に再チャレンジを呼びかける言葉のようです。始めるのに年齢も時期も関係なし(年始も年度始めも関係なし)、思い立った時がチャンスというわけです。

 現代の天文学は、400年前にガリレオが望遠鏡を宇宙に向けたときに始まるといわれます。そのときのガリレオの発見は、小さな望遠鏡や自作の望遠鏡で追体験することができます。

 現代の天文学は、物理学を基礎とすることから天体物理学と呼ばれますが、その基礎は、19世紀から20世紀にかけて、物理学と技術の進歩によって築かれました。そのとき天体観測で活躍したのがひとみ望遠鏡と同じ程度の口径1-2 メートルの天体望遠鏡です。

 物理学を学びながら、ひとみ望遠鏡で観測し、観測データを物理的に分析すれば、現代天文学・天体物理学の発展を自ら追体験することができます。むかし物理学を学んで、天文学にも興味があった、天文台がそんな方の再チャレンジの場になったら面白いと思っています。

ごあいさつ

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2012年、新年のご挨拶をしようと思っているうちに、もう1月も終りが近づいてしまいました。新年のご挨拶の時期を逸してしまいましたが、その後の近況を。

年末年始は、九州の桜島・霧島・阿蘇の火山を訪ねておりました。昨年、大震災に関連して「地球の営み」と言う言葉を何度か使ったのですが、すこし気になっていました。私が最も「地球の営み」を感じるのは火山活動です。最近桜島の火山活動が活発と聞き、「地球の営み」を確認したくなって、年末年始の休みを利用して九州に取材に行ってきました。滞在中、激しく噴煙が昇る姿が何度か見られました。

また、以前に石黒耀著『死都日本』(講談社、2002年)を読んでこの付近の火山に興味を持っていました。この小説は、九州南部に隠れている巨大火山群の噴火が、もし現代の日本で起きたらどうなるかというシミュレーション小説です。実際の地形を見ながら小説を思い起こすと、そのスケールに圧倒されます。いずれ、機会を見てその時感じたことをご報告したいと思います。

1月3日に九州から仙台に戻り、4日から仕事始め・新年の挨拶回りの後、1月9日から20日にかけて、全国科学博物館協議会(略称「全科協」)による海外科学系博物館視察研修に参加しました。今回はアメリカのシカゴ(フィールド自然史博物館、科学産業博物館)、ニューヨーク(リバティ・サイエンスセンター)、ワシントンDC(スミソニアン自然史博物館、ホロコースト博物館)を公式訪問しました。公式訪問の間の自由時間には、他の博物館や美術館なども訪ねましたが、これについては、近日中に「日記」でご報告したいと思います。
 
仙台市天文台では毎年テーマを選んでテーマに沿った活動を行っていますが、今年のテーマは「たべる」、「食」です。天文学では、天体が他の天体を隠す現象を食と言いますが、様々な食現象があります。実は、今年は金環日食や金星の太陽面通過など、いろいろな食現象が見られます。当ウェブサイトの「台長からの2012年のご挨拶」に天文学の「食」をご紹介しましたので、ご覧いただければ幸いです。
 
先日、青森県立美術館を訪ねました。企画展「光を描く 印象派展-美術館が解いた謎-」が開催中で、常設展とあわせて楽しんできました。緑の中の白い建物が印象的でしたが、内部は面白い構造で外観よりずいぶん広く感じました。壁面のサインも独特の文字や記号で統一されています。そのような無機的な白い建物の中で、女性スタッフのユニフォームが対照的でした。ブルーのスモック風ワンピースで、スタッフの丁寧な対応とともに、暖かくソフトな人間味が感じられました。美術館と企画展については美術館のウェブサイトに詳しい案内や説明があります。
 
白い建物、白い壁の大きな部屋、白い回廊など、白が強く印象に残りました。さらに企画展では「光と色彩」を扱った展示があり、白についていろいろ考えました。

白は純粋無垢、あるいは冷たくよそよそしい、人を寄せつけないといったイメージがありますが、基本的には無色・無害・ニュートラルと考えていました。しかし、真っ白な壁に囲まれると、不思議な圧力を感じ、方向感覚が失われるような非日常的な感じがします。白は重力を弱める効果があるのでしょうか。白は必ずしも無色・無害・ニュートラルではなさそうです。
純白に囲まれると、モノも人も存在感を示すためには白に対抗しなければなりません。白は膨張色、ただ存在するだけでは、脱色されて押しつぶされてしまいそうです。

これは心理的な問題ですが、物理学的にも理屈がつきそうです。白い物体はあらゆる色の光を散乱・乱反射するので明るく見えます。一方、色のある物体は、その色の光だけを反射し、他の色の光は吸収して消してしまいます。ですから、同じ光で照らされた場合、色のあるモノは光の量が少なく、白に負けてしまいます。

このような強い白に対抗できる「色」があるとすれば、それは黒でしょう。黒は、周囲が白ければ白いほど一層引き立ち存在感を増します。白とは反対に、あらゆる光を吸収して光を消してしまいます。物理学・天文学では、あらゆる光を完全に吸収する理想的な物体を「黒体」と言います。黒体にはいろいろ面白い性質がありますが、長くなるので別な機会に。
 
実は、仙台市天文台も真っ白です。建物の外観も館内も白を基調にしたデザインで、来館者には明るく清潔感があっておしゃれできれいと好評です。しかし、最初、私は少し落ち着きませんでした。真っ白な世界は人工的で不自然な感じがしたのです。その中でスタッフが自然に振る舞い、自然な存在感を示すことはなかなか難しいような気がしました。

そこで気がついたのが、私も着用している天文台のユニフォームです。下は、黒の長ズボンで両脇に細い白線が入っています。上は、夏は半そでの黒いTシャツ、冬は長袖の白いワイシャツです。最初は慣れない服装で抵抗がありましたが、非常にすっきりしていて、意識しなくても天文台の雰囲気に自然に溶け込めるような気がします。デザイナーが考えてくれたかどうか分かりませんが、心理的には楽なユニフォームです。

そのユニフォームが、この秋にリニューアルするそうです。これまでとはかなり違った色とデザインになるようです。若いスタッフには似合いそうですが、私にはどうでしょうか。白い天文台の「異物」に見えないかどうか気になるところです。

こんなことを帰りの新幹線の中で考えたのですが、すこし観念的に過ぎたかもしれません。一度検証してみたいと思います。思いがけなくも、「白」について色々考えた旅でした。
先日、仙台市青葉区大町、西公園の近くにある「斉藤報恩会博物館・ポケットミュージアム」に行ってきました。ポケットミュージアムの名の通り、こじんまりしたワンルームの博物館ですが、それだけ身近に親しみのわくミュージアムです。

以前、仙台市青葉区本町に「齋藤報恩会自然史博物館」がありましたが、残念ながら平成21年3月に閉館し、平成21年7月に縮小してこちらに移転開館したものです。恐竜の骨格標本、宮城県産出の化石や鉱物、絶滅が危惧されている鳥類の剥製、さらに財団法人斎藤報恩会が助成した研究の成果などがコンパクトに展示されています。
このミュージアムの目玉はなんといっても、肉食恐竜アロザウルスの全身骨格標本です。レプリカですが、なかなかの迫力です。実は、仙台では大型肉食恐竜の全身骨格標本はここでしか見られないので貴重な存在です。

博物館の展示室に入るとアロザウルスの大きな顔・頭骨が迎えてくれます。恐竜の顔があまりに間近にあるので、今にも顔をなめられそう、否、一口にパクッとされそうです。下に「手を触れてはいけません」という「表示」がありますが、僕たちも「なめてはいけません」・「恐竜の食べ物ではありません」という表示を首に下げたくなります。

でもほんとうは心配いらないのです。実は、恐竜は6500万年前に突然絶滅し、人類はそれよりずっと後の数百万年前に出現したとされ、幸か不幸か全く時代が異なり両者が出会うことはなかったのです。

恐竜は宇宙人と並ぶSF(サイエンスフィクション)の定番ですが、自然史にはなかった人類との出会いをどのように仕立てるかが重要なポイントです。僕は幼少の頃からSFが好きで、シャーロック・ホームズの冒険でお馴染のコナン・ドイル著『失われた世界』や映画化され大ヒットしたマイケル・クライトン著『ジュラシックパーク』など「恐竜モノ」を大いに楽しんだのですが、いかに人間の時代に恐竜を出現させ、人間との出会いを演出するかが最も興味のあるところでした。

フィクションではなく、科学的・自然史的に興味深いことは恐竜絶滅の原因です。様々な説がありましたが、現在最も有力な説が巨大隕石の衝突です。様々な状況証拠が集められ、隕石が落下した場所も特定されています。巨大隕石の衝突による恐竜絶滅は、僕も講義や講演でよく取り上げるのですが、科学的に説明ができるようになりました。

巨大隕石の衝突は恐竜にとって大変不幸な出来事でした。しかし、恐竜には申し訳ないのですが、それが人類の祖先に幸運をもたらしたということです。人類の祖先に当たる哺乳類は恐竜の時代に出現したそうですが、小型で、恐竜におびえながらひっそりと暮らしていました。哺乳類は環境の適応能力が優れていたので、絶滅によって恐竜の脅威がなくなると、恐竜に代わって繁栄・進化し、やがて人類が出現したというのです。ということで、恐竜も隕石も我々の存在と深くつながっているということになりますが、自然史の面白いところです。
 
ところで、博物館に「齋藤報恩会」という歴史の教科書の中から出てきたような名前が付いていますが、事実、斎藤報恩会は歴史に名を残す事業を行ってきた財団なのです。宮城県の斎藤家第9代当主、斎藤善右衛門が大正12年(1923年)に私財を投じて設立し、学術研究教育振興を行ったものです。当時このような財団は前例がなく、その事業内容はユニークで先進的なものでした。財団の活動は今も続けられていますが、そのような財団の歴史も展示の中にうかがうことができます。
 
斎藤報恩会博物館・ポケットミュージアム
〒980-0804 仙台市青葉区大町2丁目10番14号 仙台パークサイドビル2F
TEL:022-262-5506
http://www.saitoho-on.com

六分儀のご縁

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 前回の日記で、仙台市天文台で開催されたシンポジウム「八分儀・六分儀―伝来とその役割」について触れましたが、そのシンポジウムに関心がありながら参加できなかった方から質問があったので少し補足します。

シンポジウムのパネラーは(五十音順・敬称略)黒須潔(仙台郷土研究会理事)、小林幹夫(タマヤ計測システム㈱参事)、西城恵一(国立科学博物館研究主幹)、塩瀬隆之(京都大学総合博物館准教授)、土佐誠(仙台市天文台台長)、中村士(帝京平成大学教授)、古荘雅生(神戸大学大学院海事科学研究科教)、そしてコーディネーターは葛西誓司(タマヤ計測システム㈱代表取締役)の皆様でした。

六分儀は1757年にイギリスで発明されてから間もなく日本に伝来したようですが、当時日本は鎖国をしていたので、六分儀が航海に活用される機会は殆どなかったようです。その代わり測量機器として独自の発展がありました。これが今回のシンポジウムの主要テーマです。そのあたりの事情は、今回パネラーとして出席された中村士さんの『江戸の天文学者 星空を翔ける』(技術評論社)に興味深く記されています。お勧めです。
 
実は、今回のシンポジウムは六分儀メーカーのタマヤ計測システム株式会社の葛西誓司社長から全国のその道の専門家に声をかけていただき実現したものです。六分儀のご縁、重ねて感謝です。このようなテーマのシンポジウムはたぶん我が国では初めてではないかと思います。私にとって貴重な経験でしたが、天文台としても画期的なイベントでした。
 
実は、今回お世話になったタマヤ計測システム株式会社の歴史も興味あるものです。資料によると、その創業は江戸時代初期(1675年)に遡るという老舗で、最初「玉屋」という屋号で眼鏡の輸入販売を始めたということです。やがて、眼鏡から計測器へと事業を拡大し、さらに海外からの輸入に頼っていた各種計測機器の国産化を成し遂げました。その中に六分儀がありましたが、資料によると、Tamayaブランドの六分儀はドイツ製と共に世界的に高く評価され世界の六分儀市場の大きなシェアーを占めたということです(B.Bauer,  The Sextant Handbook. 2nd ed. International Marine/McGraw-Hill Book 1992)。

私の手元にある「昭和7年版・玉屋商店・商品目録」には天文経緯儀が載っていました。天文経緯儀は天体の高度方位角を精密に測る機器ですが、口径8cmの望遠鏡を備え高度・方位角を1″まで読み取れる精密なものです。「我が国天文台の命を受け製作」ということで、当時の我が国の天文学の発展に貢献したものと思われます。

実は、仙台市天文台の展示倉庫にある古い測量機器の中にもいくつか「玉屋」の屋号が刻まれているものがありました。また、1950年代末から1960年代にかけて旧仙台市天文台で人工衛星の観測に活躍したセオドライト(気象経緯儀)も「玉屋」製でした。仙台市天文台も意外に古くから「玉屋・タマヤ」さんとお付き合いがあったことを発見しました。
 
 
 
先日、仙台市天文台で「八分儀・六分儀―伝来とその役割」というシンポジウムが開催されました。各方面の専門家に参加いただき、興味深い話を聞くことができました。

遠洋の航海は、目印となるものがなく、方位や自分の位置を知るのに星だけが頼りです。星を測って航海をする天文航法において最も重要な観測機器が六分儀でした。1757年にイギリスで発明され、20世紀になって電波灯台やGPSが普及するまでの二世紀余り大海の船を導いてきました。この間、原理も基本的な構造も全く変わっていません。驚くべき完成度、究極のアナログ機器です。

仙台市天文台に六分儀が展示されていますが、こんなに小さくシンプルな機器が遠洋を航行する船を導いたと聞くと驚きです。現在も、非常時のために装備している船舶も多いということです。今回は、仙台市天文台の「六分儀伝来の秘話」をご紹介します。

私はかねがね六分儀を天文台に展示したいと考えていました。そんなとき、我が国唯一の六分儀メーカーであるタマヤ計測システム株式会社の葛西誓司社長が天文台を訪問されました。

葛西社長とお会いして、当然話題は六分儀になりました。葛西社長は、我が国で最初に六分儀の国産化を果たしたメーカーの責任として、六分儀の伝来とその後の発展を調べておきたい、そして皆さんに六分儀をもっと知ってほしい、ということを話されました。私は六分儀に対する関心をお話しし、大いに意気投合したわけです。

このような出会いがあって、天文台に六分儀を展示したいという思いが一層強くなったのですが、ほどなく葛西社長から天文台に六分儀を寄贈したいという申し出を頂きました。感謝感激の極みでした。

※その時の写真はこちらにあります→宇宙のひろば「六分儀(ろくぶんぎ)をいただきました!」

天文台スタッフからは「台長がもの欲しそうな顔をするから(はしたない!?)…」などとたしなめられたのですが、実は葛西社長にはもう一つの出会いがあったのです。

葛西社長が来台されたとき、プラネタリウムをご覧いただきました。投映が始まると、ろくぶんぎ座(六分儀座)が南の空に現れたのです。ろくぶんぎ座の存在をご存じなかった葛西社長は、この星座を見て大変驚き感激したということでした。もちろん私が指図したり、プラネタリウム解説者が意図していたわけではありません。ご縁としか言いようがありませんが、思いがけない発見と出会いにたいへん心を動かされたようです。

天文台長には欲しいものがたくさんあって、事あるごとに「星に願い」をかけるので、お星さまからうっとうしがられているのですが、今回は、ろくぶんぎ座の星々が葛西社長に積極的にアッピールしたようです。「もっと六分儀を知って欲しい」という「星の願い」が葛西社長の思いと重なり、社長の心を動かしたのでしょうか。天文台長は、「星の願いがかなって仙台市天文台に六分儀が展示されることになった」、と今も信じているようです。
 
ろくぶんぎ座は春の星座で17世紀にポーランドの天文学者ヘヴェリウスが設定したものです。航海用の六分儀が発明される前から天体観測用の固定された六分儀が使われていましたが、星座になったということは、当時六分儀が大変重要な観測機器であったことを示しています。

ろくぶんぎ座は目立たない星座ですが、プラネタリウムの他に展示室の「星座を見つけよう(U12)」のパネルの方の「春の星座」に見つけることができます。それから、天文台の入口を入って左手にあるサポーターボードにも大きな星図がありますので、ろくぶんぎ座を探してみてください。何か面白い発見があるかもしれません。

 仙台七夕がやってきましたが、先月七夕の頃、東京に出張したときに時間があったので、東京竹橋にある東京国立近代美術館を訪ねました。

 仙台市天文台は博物館登録施設、国に博物館として登録されています。天文台に勤めるようになって、博物館・科学館・美術館などを訪ねるのも仕事になりました。

 東京国立近代美術館ではクレー展が開催中でしたが、常設展示では近代日本絵画の代表的作品を見ることができました。

 常設展示ではガイドツアーの案内がありました。天文台でもスタッフが展示ガイドや解説などをしているので、参考になることがあればと思い参加することにしました。

 ホスピタリティあふれる女性のガイドさんで、楽しくわくわくしながらツアーに出発しました。七夕の季節ということで、空や星をテーマにした作品をいくつか選んで案内してくださいました。

 ガイドさんは、作品の解説をするというより、まず参加者の感想を上手に引き出して、そこに解説や鑑賞のヒントを少し加え、また問いかけをして参加者の反応を見ているようでした。ツアーが進むにつれ、参加者からさまざまな感想や意見が出され、見る目も変わってくるようです。30分ほどの短い時間でしたが、楽しいひと時を過ごしました。

 このガイドツアーで、一枚の絵に思いがけない再会がありました。それは、太田聴雨(1896−1958)の「星をみる女性」(1936年)です。

 五人の和服を着た若い女性が大きな屈折望遠鏡を囲んでいる絵です。切手(1990年)にもなった絵ですが、切手では右側の女性1人と望遠鏡の架台・ピラーがトリミングされていました。実物は273×206cmの大きなもので、細部まで良く見ることができます。

 日本画で和服の女性と天体望遠鏡、想像しにくい取合わせですが、静かな調和があります。太田聴雨は「描かれた女性は『悠久的なるもの』への思慕を表現する為に私が仮に託した映像に過ぎない」と述べているそうですが、私は日本版ムーサ、ミューズの女神と解釈しました。ミューズの女神たちが集うところがミュージアムです。

 特に私の目を引いたのは、望遠鏡を覗いている女性の目と、その望遠鏡です。望遠鏡は見慣れたドイツ式屈折赤道儀で細部まで実に正確に描かれています。解説によると、予想通り上野の国立科学博物館の口径20cm屈折望遠鏡でした。1931年、国立科学博物館1号館が完成した時屋上に設置されたもので、当時から観望会が開かれていたそうです。画家も観望会を見て着想を得、望遠鏡を忠実に写生したのでしょうか。

 実は、私も昔(1950年代)、中学生の頃何度か上野の科学博物館の天体観望会に参加し、この望遠鏡を覗いたことがあったのです。憧れの大望遠鏡でした。今はもう使われていないようですが、思わぬ再会でした。
 
この絵は独立行政法人国立美術館のウェブサイトで見ることができます。
太田聴雨「星をみる女性」 http://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=2102


 皆様、大変ご無沙汰しております。こうじさんにも「交換日記」の返事を棚上げにしたままですみません。

 トワイライトサロンがいつの間にか150回になっておりました。いろいろな方からお祝いの言葉を頂きありがとうございました。

 もう7月も終わり、いつの間にか1年の後半に入っていました。このところ「いつのまにか」という感覚がついてまわります。時は過ぎていくのに、私の頭の中の時計は止まったままのようです。カレンダーをめくるのも忘れがちです。大震災は3月11日でした。いつのまにか年度が変わり、人事異動でもきちんと挨拶をする間もなく人が入れ変わり、遅れて新学期が始まり、暑いと思ったらいつのまにか夏が来て、もう8月です。

 今年に入っていろいろな経験をしたのですが、特に大震災では大地震・大津波・福島第一原発事故、その被害の惨状、これまでに経験したことのないことでした。私の身のまわりでも、友人が津波の犠牲になったり、天文台が長期間の休館になったり・・・。

 天文台は大震災後一月あまり、4月16日から、ひとみ望遠鏡関係を除いて部分的に開館しました。トワイライトサロンも毎週定期的に開催し、私自身も正常に戻ったように見えます。でも、いろいろな思いが絡み合って頭の中で散乱し被災地の瓦礫の山と重なります。なかなか解きほぐせない噛みきれない思いが積み重なっていくようです。

 これまで、いろいろな機会に「この忙しい世の中、ストレスで精神が歪みがちです。ときには天文台に来て正気を取り戻してください」などと言っていたのですが、今その自分の言葉を思い出しながら私も「正気」を取り戻そうと努めております。

 たくさんの方からお見舞いや励ましの言葉を頂きました。大震災の混乱の中、まだ十分にお礼を申し上げていないような気がしてなりません。本当にありがとうございました。

 今日はここまでにします。

 先日、出張に出るときに駅の書店で『土佐日記(全)』(西山秀人編集、角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)を見つけました。薄い文庫本で、すぐに読めそうだったので買って列車に乗りました。旅に出るとふだんは読まない本を読む機会があります。

まずは現代語訳を読んで、解説を読んで、ときどき原文を参照しつつ読み進んだのですが、意外に面白く一気に読んでしまいました。

 古今和歌集の編者として有名な紀貫之の作ですが、地方長官として赴任していた土佐から京都へ帰る55日間の船旅を、同行の女性を装って記した日記です。「それの年の、十二月の二十日あまり一日の日(ある年の12月21日)」から始まりますが、気がついたら今この時期なので私も感想を書いてみました。

 悪天候や海賊の心配をしながらの遅々とした船足、狭い船の中での集団生活、船酔いなど苦労の連続です。さまざまな人間模様やドタバタ劇が「諧謔に富んだ軽快な文章で記されている」ということですが、解説をたよりに読むと、駄洒落やユーモアなど面白さが伝わってきます。さらに、土佐赴任中に亡くなった子供への哀惜の念、親の悲しみが何度も繰り返され、この日記に深い奥行きを与えています。千年以上前の日記ですが、時を超えて喜びも悲しみも伝わってきます。
 
 この旅には、もう一人(?)重要な同行者がいます。それは月です。折に触れて登場し、そのときの情景や心情を代弁します。

 1月8日の日記に「今宵、月は海にぞ入る」と月が沈む情景が記され、次の歌が詠まれます。比喩が面白くスケールの大きな歌です。

 照る月の流るる見れば天の川出づる水門(みなと)は海にざりける(現代語訳:照る月が西に流れ流れて、いつか海に入っていくのを見ると、あの天の川も地上の川と同じく、流れ出る河口はこの海であったのだなあ)
 この文庫本には挿絵があって楽しく効果的ですが、このページの月の挿絵が少し気になりました。水平線に浮かぶ満月が描かれているのですが、月の模様・ウサギの姿勢を見ると、頭を上にしているので水平線に昇ったばかりの月のようです。実は、月の模様の向きは決まっていて、月が沈む時ウサギの頭は下になります。

 「宵に沈む」ということなので上弦前の月のようです。もし、本文に合わせるなら、半月より欠けた月が、輝いている部分を下にして水平線に沈む絵になります。このときウサギは頭を下にして海に飛び込むようなかたちになります。(ちょっと道草をしました。)
旅の進行とともに、月も移り変わり、時の流れを感じさせます。もうひとつだけ私の気に入った月の歌を選ぶと、17日、水面に映る月の情景を次のように読んだ歌です。
影見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたる我ぞわびしき(現代語訳:水に映る月影を見ると、波の底に大空が映っているが、その空を漕いで行く私は、なんとちっぽけでたよりない存在なのか)
透明な水面に浮かぶ船は宙に浮いているように見えますが、反射した月や星が水中に見えれば、宇宙に漕ぎだした心地がしたことでしょう。
 
日を追って記された日記形式で、今風に言えばブログのようです。そう思っていたら、巻末の編者の解説は「ブログとしての『土佐日記』」でした。

 『土佐日記』は高校の古文の時間に勉強したはずですが、有名な書き出しの言葉と先生の熱弁しか記憶に残っていないようです。今回、改めて読みなおしてみると、この本の「はじめに」に書かれている編者の期待通り、元祖『土佐日記』は「思っていたよりもずっと面白い」作品でした。
 
(12月21日)
 先日、東京出張のときに少し時間があったので、上野の国立西洋美術館で開催中の「アルブレヒト・デューラー版画・素描展」を見てきました。美術書によると、アルブレヒト・デューラー(1471-1528)はドイツルネサンス期に活躍したドイツ美術史上最大の画家ということですが、その版画も見事なものです。

 有名な《メランコリア(1514年)》や《騎士と死と悪魔》(1513年)など是非見たい作品がありましたが、もう一つのお目当てはデユーラーの星図です。二枚の木版画《北星天図》と《南星天図》が展示場の最後に展示されていました。約45cmx45cmほどの大きさで、おなじみの星座絵、いわゆるギリシャ星座絵が線描ですっきりと美しく描かれています。(インターネットで「Durer’s Celestial Map」で検索すると画像が見つかります。)

 《南星天図》の隅には銘文があるのですが、解説によると左下の銘文は「ヨハネス・シュタビウスが企画し/コンラート・ハインフォーゲルが星図を決定し/アルブレヒト・デューラーが星図を描いた」ということです。古星図の解説書(*)によると、シュタビウスとハインフォーゲルはニュルンベルグの数学者・天文学者で、シュタビウスが座標系を定め、そこにハインフォーゲルが星を配置したということですが、トレミーのカタログをもとに、約1000個余りの星が記されているということです。

 星座絵は裏返しになっていて、天球を外から見た図、あるいは天球儀を平面に展開した図になっていますが、古い星図ではしばしば裏返しの図が見られます。

 以前、同じ国立西洋美術館の特別企画「ドレスデン国立美術館展」(2005年)のときにデューラーの「星図・北星天」「南星天」が展示されていましたが、そのときは美しく着色されていました。今回はモノクロですが、版画なのでプリントされたものがいくつもあるようです。今回の展示はオーストラリアのメルボルン国立ヴィクトリア美術館所蔵のものでした。

 印刷された星図としては最も古いものだそうですが、後世の星図絵に大きな影響を与えたということです。今からおよそ500年前の作品ですが、時を超えて楽しむことができます。

 今回、見上げるような巨大な木版画《神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の凱旋門》が展示されていましたが、デューラーの版画には小さな細密なものも多く、あまりに細かいので拡大鏡が欲しくなります。良く見ると、小さな版画の中に宇宙が閉じ込められているようす。

 国立西洋美術館は上野駅のすぐそばにあるので、列車の待ち時間があるときにちょっと立ち寄ってみます。最近は、シニア料金(常設展示が無料)を適応してもらえるようになったので、一層入りやすくなりました。馴染みのなかった古典絵画や宗教画なども、何回も見ているうちに、何となく見慣れてきて興味が持てるようになります。仙台市天文台の展示はどうでしょうか。

「デユーラーの版画展」は2011年1月16日(日)までですが、見に行かれたときは《北星天図・南星天図》の木版画もお忘れなく。

(*)Nick Kanas著、“Star Maps - History, Artistry, and Cartography”, Praxis Publising, 2007年。

宇宙を身近に

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※この日記は、「りらく」7月号内コラム“Astronomical Essay”と連動しています。
 
 私が勤務する仙台市天文台では、「宇宙を身近に」を合言葉に、宇宙が身近に感じられるような施設を目指しています。「身近」というと、文字通り身の回り、近くにあって日常の生活に関係が深いこと。ところが、星や宇宙は遠くにあって、日常生活には縁の薄い存在、どうしたら身近に感じられるでしょうか。

 幼少の頃、満天の星空や天の川は馴染みの風景でした。いつしか星に興味を持つようになり、夜な夜な外に出て星座を探したり、望遠鏡で月を眺めたり、宇宙が身近な遊び場になりました。そうした夜遊びを繰り返しているうちに、ふと疑問がわいてきました。「星の正体は何だろう」。そう思って星をいくら見つめてもその正体は見えてきません。身近な星がだんだん遠くなるような気がしましたが、そこから、星の正体を求める長い旅が始まりました。

 やがて、星の正体は太陽のような巨大な高温のガス球で、核融合反応という原子力エネルギーで輝く天然の原子炉であることを知りました。納得できるまでにずいぶん時間がかかりましたが、いつの間にか黒板に星を表す円を描き、あたかも自分が星になって自己紹介をするように星の話をしていました。星の理解が深まって再び星が身近になったわけです。そして、私にとって星は「☆」から「○」になりました。

 距離は近いのに、身近に感じられないものもあります。たとえば、元素。私たちの体は酸素・炭素・窒素など様々な元素で構成されていますが、極微の元素は目にも見えず、触れても実感できず、心理的には限りなく遠い存在です。その元素が、実は核融合反応によって星の中で作られたことを知りました。星の中で作られた元素は、星の一生の終わりの大爆発によって宇宙に撒き散らされます。そのような昔の星が作った元素を集めて太陽や地球が生まれたというのです。私の指先の炭素原子は、その昔、星の中で作られ、はるばる宇宙を旅して今ここでひと時を過ごしている、つまり、私たちは星のかけらでできていると言うことになります。このことを知ったとき、目には見えなくとも、元素が急に身近な存在になりました。近いものと遠いもの、極微なものと限りなく大きなものがつながる、宇宙の面白いところです。

 満天の星や天の川は都会では見られなくなりましたが、プラネタリウムで疑似体験することができます。また、薄明の空に明るく輝く金星や細い月などは都会でも見られる風景です。少し注意していると日常生活の中に宇宙を身近に楽しめる機会がいろいろありますが、もし興味を持って深く知り、理解が深まると一層身近に感じられると思います。これは、宇宙だけでなく、音楽・美術・文学などあらゆる分野に、そして人間関係についても言えることでした。

本年もよろしく

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 いつの間にか2009年が明け、1月も末になってしまいました。遅ればせながら、本年もよろしくお願いします。ご無沙汰しておりましたが、天文台では変わらず仕事に励んでおります。

 今年は、年始めから私にとっては大きな仕事がありました。1月10日から21日まで、全国科学博物館協議会の海外科学系博物館視察研修に参加し、アメリカの著名な科学系博物館を訪問してきました。目下、時差ボケ調整中です(「時差」がつかない「・・」ではないかという陰口も聞かれますが)。

 ニューヨークのアメリカ自然史博物館(映画『ナイトミュージアム』でおなじみの博物館)を皮切りに、リバティ・サイエンスセンター、次にヒューストンに飛んでヒューストン宇宙センター、NASAジョンソン宇宙センター、さらにサンディエゴに飛びサンディエゴ自然史博物館、最後にサンフランシスコのカリフォルニア科学アカデミーを公式訪問しました。公式訪問ということで、管理運営の状況などを詳しく聞いたり、公開されていない「裏」まで見学することができました。

 それぞれたいへん規模の大きな施設で、例えば、アメリカ自然史博物館は、千人を超えるスタッフ、200人を越える科学者を擁し、来館者は年間1千万人、数百人のボランティアが活動しているというのです。

 アメリカ自然史博物館にはプラネタリウムがあり、”Journey to the Stars(星への旅)”という番組が投映されていました。これは本格的な天文学の番組で、迫力あるCG映像で星を中心に宇宙の進化を紹介するものです。実は、春から仙台市天文台のプラネタリウムでも日本語版が投影される予定ですのでご期待下さい。

 各館、仙台市天文台とは比べものにならない規模ですが、それでも参考になることもたくさんあり大変勉強になりました。また、仙台市天文台の良さ・利点も再確認することができました。今後の仙台市天文台の運営などに生かしたいと思いますが、機会を見て、トワイライトサロンなどでも紹介したいと思います。
 台長に就任以来、出張の度にできるだけその地方の天文台・科学館・博物館・美術館などを訪ねるようにしています。仙台市天文台の参考になることがあればということです。先日(9月14日~16日)、山口大学で日本天文学会秋季年会が開催された折、プラネタリウムがあるというので、津和野の安野光雅美術館に行って来ました。実は、私は安野さんの絵が好きなので、原画にも興味がありました。また、以前に安野光雅著『故郷に帰る道』(岩波書店)を読んで津和野の街並みにも関心があったので楽しみでした。

 プラネタリウムの投影まで時間があったので、駅前で自転車を借りて町内を一回りし、森鴎外記念館や葛飾北斎美術館などを見学しました。津和野は私が想像していたよりずいぶん小さな山間の町で、美しい懐かしい街並みや風景が残っていました。

 プラネタリウムは、入場者が2人だけで申し訳ないようでしたが、全自動のプログラムで少し気が楽になりました。星空の投影の前に、映像による安野さんの挨拶とお話がありました。安野さんの絵本『天動説の絵本―てんがうごいていたころのはなし』(福音館書店)の絵を用いた話で、何故この美術館にプラネタリウムを設置したか説明がありました。正確には記憶していませんが、その趣旨は次のようなものでした。

 絵画や美術は想像や空想を自由にふくらませて表現するものですが、一方、現実の自然を科学的に見る目や論理的思考も大切です。そこで、プラネタリウムを設置し、天文学を通して科学に触れていただこうということでした。科学と空想のバランスを取ることが大切だという話で、私も同感です。私には、安野さんの絵は非常に論理的で安心感があるのですが、そこに非論理あるいはあり得ないことを描いて驚かせます。意表を突く、論理と非論理の対比がとても面白く感じます。

 美術館には昔の学校の教室を再現した部屋もあって、私も幼少時代を思い出しました。その頃、学校にプラネタリウムがあったらさぞ楽しかっただろうと思いました。
 先日(10月13日午後)、仙台市教育委員会の「小・中学生のためのサイエンス講演会」が仙台市天文台で開催されました。講師は前国立天文台長の海部宣男さん。今年は世界天文年2009日本委員会の委員長としてご多忙とのことでしたが、仙台に来て下さいました。講演の題目は「第二の地球を探そう」で、世界天文年2009と太陽系の外に地球のような惑星を探す話をされました。

 対象は小学校5・6年生と中学生で、天文台の加藤小坂ホールが小・中学生と父兄でいっぱいになりました。講演中は小中学生の皆さん静かに熱心に話を聞き、講演終了後の質問タイムには活発な質問がありました。

 正直に言うと、小中学生の皆さんが静かに講演を聞いてくれるか、また質問が出るかどうか少し心配していたのですが、全くとり越し苦労でした。天文台で小学生の授業を担当している指導主事の佐々木靖先生と「小・中学生なかなかしっかりしていますね」と感想を述べあいながら、うれしくなりました。

 次回は冬休みに開催の予定です。時期がくると、「市政だより」などに募集の案内が掲載されますのでご注意下さい。対象は小学校5・6年生と中学生です。
 
 参考:仙台市天文台では、通常平日の午前中、仙台市内小中学生向けの理科の授業が行われています。
 新聞を整理していたら、霜山徳爾さんの訃報が目に留まりました。上智大学名誉教授、臨床心理学、フランクル著『夜と霧』の訳者、10月7日死去、90歳とあります。

 私が最初に霜山さんを知ったのは学生時代フランクル著『夜と霧』(みすず書房)を読んだときでした。アウシュビッツ強制収容所から生還した心理学者による収容所の記録です。極限的・絶望的な状況のなかでいかに生き延びたかが記され、強烈な衝撃と感銘を受けました。

 その後(20数年後)、大学で学生相談に関わるようになってカウンセリングや心理療法の本を見る機会がありました。そこで鍋田恭孝編集『心理療法を学ぶ』(有斐閣)の中に霜山さんが執筆された一章「心理(精神)療法家としての心構え」を読み、参考書にあった霜山徳爾著『素足の心理療法』(みすず書房)を見つけ、久々の再会になりました。

 『素足の心理療法』は心理療法家の心構えを説いた本ですが、古今東西の文学・芸術・宗教などを引用しながら、人間とその心の宇宙を語っていました。私には難しい本でしたが、深い感銘を受けました。

 最初に「沈黙」の意味と豊かさが説かれ、次いで「心理療法の根本原則は、害を与えざること第一なり」、「いやしに毒はつきもと」と心理療法家に絶えず反省を促す言葉が続きます。これらの言葉は、教育や人に働きかける仕事に携わる人にも大切な言葉だと思いました。

 霜山さんの言葉は、長い心理療法の経験に基づくもので、人の心の中の広大な宇宙と暗闇を感じさせるものです。霜山さんはそのような心の宇宙の案内人であり、また、心の奥の暗闇に光を灯そうとする伝道師のように見えました。宇宙の暗黒物質のように、心の宇宙にも見えない大きな無意識の暗闇があり人間を支配しているようです。

 霜山さんの著作は学樹書院から出版された『霜山徳爾著作集(全7巻)』にまとめられています。私も折に触れ著作集を開いていましたが、しばらくご無沙汰しておりました。この機会に霜山さんの著作を訪ね、ご冥福をお祈りしたいと思います。
 いつの間にか時が経ち、日記に長い空白ができてしまいました。ご心配をおかけして申し訳ありません。暖かい励ましのお言葉を頂きありがとうございました。私の方は変わりなく天文台の仕事に励んでおります。

 まずは近況のご報告を。先週、第57回全国博物館大会が北海道旭川市で開催され、旭川に行ってきました。仙台市天文台は博物館として登録されており、台長に就任以来、博物館・科学館関係の会議や研修会に参加し勉強しております。今回もいろいろ参考・勉強になりました。

 今回のテーマは「博物館の再生、地域と文化の創造」でした。「再生」という言葉から、博物館は、科学館・公開天文台・動物園などを含めて、いろいろな問題を抱えていることが推測されます。予算やスタッフの削減、入館者の減少など困難な時期を経ていかに再生したか、経験や事例が報告されました。

 「再生」の処方箋があるのかどうかわかりませんが、「再生」を成し遂げた施設は、施設の目的・使命を改めて確認し、職員の意識変革をはかり、再生に向けた工夫と努力を重ねたということでした。

 仙台市天文台の場合、誕生(新生?)したばかりで、再生するために落ち込む必要はないのですが、今後元気に成長していくためにどうすべきかを考えています。先輩施設が「再生」のために考えたり実行したことを聞いていると、今私たちが考えたり実行しようとしているとことと重なり、意を強くしたところでした。

 今回もう一つ印象に残ったことは、「わかりやすさの危うさ」という問題を提起された方がいて、私も日頃考えていることだったので、強く同感しました。わかりやすさを追及するあまり、肝心の伝えたい内容が失われてしまう恐れがあるということです。これについては次の機会に。
 昨年、仙台市天文台で日本SF作家クラブの訪問とトークショーがありました。そのときに推薦したH.G.ウェルズ著『宇宙戦争』(1898年)についての「日記」です。すこしへそ曲がりの日記だったのでここにアップするのをためらっていましたが、「(その3)は?」という声があったので、遅ればせながら書き写しました。

 『宇宙戦争』は火星人の地球侵略、地球外文明(ET)と地球人との出会い(コンタクト)の物語です。その後、火星人の存在は否定されましたが、幼少の頃にこの本に出合い、物語の自然な展開に引き込まれ夢中で読みました。

 もしETがコンタクトを求めてきたら、彼らが平和で友好的かそれとも乱暴で敵対的か、それは現実にはあり得ないと思いますが、それゆえSFとして興味があります。

 『宇宙戦争』は、その後映画で何度も取り上げられましたが、不安や恐怖が誇張されてホラー映画になりました。そこには製作者(地球人)の恐怖心や残虐性が投影されているように感じられ、後味が良くありません。一方、映画『ET』や『未知との遭遇』などでは、平和で友好的なETが登場しました。こちらは、私たちの願望が表現されているようですが、地球人の愚かさや醜さを誇張してETと対比させる手法が気になり、少し違和感が残りました。

 ところで、現実的にはETの地球訪問・恒星間の旅行は不可能に思われます。一番近い恒星からでも(そこにETがいる兆候はありませんが)、現実的なロケットによる宇宙旅行を考えると何万年という途方もない時間がかかります。SFでなければ超えられない「時間・空間の壁」です。ですから、ETの気持になって(といっても地球人の考えですが)地球に来なければならない理由を考えると、生存の地を地球に求めること以外にはないでしょう。その地球では、地球人どうしが生存をかけて争っています。すでに地球は飽和状態、宇宙人を受けいれる余地はなさそうです。とすると、地球人との衝突は避けがたいことになるでしょう。

 『宇宙戦争』の火星人(「人」と呼んでよいかどうか疑問がありますが)は徹底的に人類社会を破壊していきました。地球人の都合など一顧だにせず、その冷酷非情さは想像を絶するものがあります。しかし、地球侵略に彼らの存亡がかかっているとすれば、地球人の都合など問題ではないのでしょう。

 私たちは、残念ながら自分以外の宇宙人と出会った経験がありません。そこで、私たち人類の歴史を振り返えってみると、異民族・異文化が新天地を求めて新しい世界に進出したとき、武力に勝る「文明」が何をし、何が起こったか、歴史が教えてくれます。地球人どうしでも残酷な争いがありました。火星人だけが冷酷ではないようです。ですから、一方的に平和友好を「わけあり」の火星人や宇宙人に期待することは都合が良すぎます。「地球の水は甘いぞ」とか「地球は良い所一度はおいで」などと宇宙に向かって叫んではなりません。できるだけ目立たないようにしているのが賢明です。

 もし、ETが地球に到達できるほどの技術力を持っているとすれば、彼らの武力・破壊力は私達の想像を超えています。彼らと武力で戦うことは賢明ではありません。戦わずして平和共存あるいは生き延びる道を探すべきです。ETが地球にやってくると信じている人は、このことを考えておく必要があると思います。

 こんなことを書きながら、現実と空想が入り混じって頭が混乱してきました。いずれにしても、幸い、地球は「空間と時間の壁」に守られています。もし地球外文明があったとしても、地球に飛来することはあり得ません。

 このような話をすると、「夢がない」、「悲観的」、「後ろ向き」と批判されそうですが、私が天文学と歴史から学んだ地球外文明との出会(コンタクト)についての結論です。ここで、あらためてお断りしますが、科学的には「起こりえないと思うこと」の話ですからフィクション、これもまたSFです。とりあえず、今回のSFシリーズはこれで終わりに。(その4)はありません。

眠り続ける太陽

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 ご無沙汰しております。「台長のブログは眠ったまま」という声を受けて、今回は最近の「眠り続ける太陽」の話題を。

 太陽の表面には黒点が見られますが、その数はおよそ11年の周期で増減します。黒点数が多いときにはフレアーと呼ばれる爆発現象やガスの放出など、太陽表面の活動が盛んになり、放射エネルギーも僅かに増大します。最近では、2001年に黒点数が最大になる極大期があり、2007年に黒点の少ない極小期を迎えました。2008年始めには「新しい活動サイクルの始まりを告げる黒点が現れた」という報告があり、黒点数が徐々に増大するものと期待されていました。しかし、あれから一年余り、黒点がさっぱり増えない、というより黒点がほとんど現れないのです。

 仙台市天文台の展示室では、リアルタイムで太陽像を投影していますが、昨年7月の開館以来、真っ白な円を投影し続けています。太陽黒点の説明をしたくても黒点がありません。毎日太陽黒点のスケッチを続けているスタッフの高橋博子さんは「ただ丸を書くだけでスケッチは楽だけど・・・」といいながら、余りの静けさに当惑気味です。今日も太陽は眠り続けたままのようです。
 

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                 ▲今日も真っ白な太陽を見つめる高橋さん

 
 天文ファンは「太陽の目覚め」を待っているのですが、一方で「太陽はいつまで眠り続けるか」関心が高まっています。というのは、ガリレオ以来およそ400年間の太陽黒点の記録がありますが、何度か黒点の少ない時期がしばらく続いたことがありました。特に、1645年から1715年にかけておよそ70年間、黒点数が著しく減少した期間がありました。このような記録を詳しく調べた太陽研究者の名前に因んでマウンダー極小期と呼ばれています。この時期、ヨーロッパや北米大陸などで著しく寒冷化したという記録があります。この寒冷化と太陽活動の低下に関心が集まっていますが、因果関係はわかっていません。というのは、太陽活動の変動に伴う放射エネルギー量の変動は僅か0.1%に過ぎないので、それが直ちに地球の気候に大きな影響を与えるとは考えにくいのです。

 最近、地球温暖化に対する関心が高まっていますが、眠り続ける太陽(太陽活動の低下)が温暖化にブレーキをかけてくれるのでは、という期待があります。しかし、太陽放射量の変動だけを見ると、予測される効果は非常に小さいようです。

 ということで、太陽が「いつまで眠り続けるか」注目されています。もしかすると「台長のブログはいつまで眠り続けるか」関心をお持ちの方があるかもしれません。このところ天文台の活動が大変活発でした。台長のブログと天文台の活動には逆の相関関係があるようにも見えますが、深く詮索しないでください。

遅ればせながら(その2)ですが、日本SF作家クラブの皆さんとのトークショーで私が推薦したSFの一冊目は(遅れた言い訳になりませんが)H.G.ウェルズの『タイムマシン』(1896年)です。時間の壁を超えるタイムトラベル(時間旅行)の物語で、その後のSFの原点といえる作品です。

 

日ごろ時間の壁に泣かされている者にとっては、時間を自由にコントロールできたらと思うのですが、それができないのでSFになります。もう少し早く着いていたら、もう少し早く生まれていたら、一寸した時間のすれ違いよる切ない思いがいろいろな物語のテーマになります。

 

『タイムマシン』では、タイムトラベルの冒険とともに、人間社会や地球の未来が語られますが、文明批判や未来社会に対する警告のようにも読めます。

 

さて、タイムマシンを現実的・科学的に考えると、さまざまな矛盾や困難に出会います。過去の出来事は「事実」として変えることができませんが、タイムマシンがあると過去にタイムトラベルして「事実」を変えることができることになります。そうするとその後の歴史が変わってしまい、「現在の事実」も事実はではなくなってしまいます。有名な例に「親殺しの矛盾」があります。もし、自分が生まれる前にタイムトラベルして親を殺してしまったとすると、自分は生まれることがなく、今存在しないことになってしまいます。さらに、人間のような物体が突然出現したり消えたりすることは、あらゆる自然の法則を破ることになります。周囲に影響を与えずに、物質が現れたり消滅したりすることは許されません。タイムマシンの可能性を真剣に考えている科学者もいますが、それはミクロな世界や極端に異常な世界で原理的な可能性を追求しているもので、原理的に可能であっても、人間のタイムトラベルが可能ということでは全くありません。

 

『タイムマシン』のようなタイムトラベルはできなくても、範囲は限られますが、別な方法で時間を超越することができるような気がします。私たちは人生のなかで様々な経験をしますが、過去の経験は記憶の中に残り、記憶をたどって時間を行き来することができます。私の場合、物心ついてから半世紀余り、その間を自由にタイムトラベルすることができます。そのような意味で、私たちはタイムマシンを内蔵し、人生とともにグレードアップされると言ってもいいでしょう。長生きすればより「長距離」のタイムトラベルを楽しむことができるわけです。長生きすることの楽しみを見つけました。このようなタイムトラベルは過去の「事実」に影響を与えることがないので、理にかなっています。

 

個人史を超えてもう少し広く考えると、過去の記憶は歴史や文化として私たちの社会に蓄積されています。そのような歴史や文化をたどることも一つのタイムトラベルです。過去を振り返ると、新しい発見によって私たちの認識が変わることはありますが、過去の事実を変えることがないので、これも理にかなっています。ただ、このようなタイムトラベルは、過去の人物と直接話をしたり、交流をすることが出来ないのが残念です。このことを画家安野光雅さんが『片想い百人一首』(筑摩書房)なかで次のように上手に表現しています。「古文は日本のどこで読んでも空間を越えて通じる。和泉式部の歌に酔うという、時間さえも越えて心が通じるということがある。と言っても、はなはだ一方的で、和泉式部がわたしのことを知るわけではない。すなわち「片想い」ということになる。」

 

もし、タイムマシンでタイムトラベルができたとしても、現在に戻るまでは、周囲に影響を与えたり交流することはできません。この「片想い」こそ現実のタイムトラベルの本質、だからこそSFの世界でタイムマシンにあこがれるように思います。個人的な時間感覚について考えると、相対性理論のように、人それぞれに固有の時間があるように思います。加藤周一『小さな花』(かもがわ出版)の「美しい時間」に次のような言葉がありました。「・・・あれは何年の何月のことであったか。それはもはや記憶にない。美しい時間は、日附けを失った。・・・・。かつての感覚は、今も私のなかに続いている。日附けのない時間は、永遠の時間でもある。」特別な経験は時間を超越し、その人にとって永遠の時間を獲得することがあるようです。「永遠」というと、ギリシアのテオ・アンゲロプロス監督の『永遠と一日』(1998年)という映画がありました。「時」が重要なテーマの映画ですが、タイトルから一日の経験が永遠・一生につながり、永遠を一日に凝縮するような経験もあり得ることを感じます。

 

さて、過去を語れば「未来はどうか」ということになりますが、それはいつか未来に。(その2)があれば、(その3)があるかどうかは未定です。

ときどき・・・

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先日、仙台市天文台で天体画像の教育的利用に関するワークショップ(FITS画像教育利用ワークショップ)が開催されました。遠方から参加した友人から「ブログ、ときどき土佐日記、楽しく読んでますよ」というありがたいお言葉。恐縮しつつ「ありがとう。更新が遅くて申し訳ない」と言い訳をすると、「いやあ~、ときどきしか見ないから、かまわないですよ」とのこと。「・・・・」、やさしいお言葉でした。

少しは「かまう」ようにと、遅ればせながら密かに「年頭の所感」を心の手帳に書き記していたところ、どこからともなく別の声が。「(その1)があるからといって、(その2)があるとは限らないわよね」。そういえば、学生の頃、教科書の上巻が出版され、下巻を待っているうちに著者が亡くなってしまったことがありました。

私はまだ生きています。何のことかすでに忘れられているかもしれませんが、間もなく(その2)を。 

惜別2008年

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 「2008年を振り返えると・・・」と始めたら、ブログ管理者から「台長、いまさら2008年の事を、と言われませんか?」との忠告。ご心配なく、今だから書けることを書きます。

 昨年12月末、評論家加藤周一氏の訃報に接し様々な思いをめぐらせていたら、インターネット上で2008年の訃報一覧に出合いました(訃報2008年-Wikipedia)。順に名前を追っていくと、私の書棚に並んでいる本の著者であったり、愛聴したレコードやCDの演奏者であったり、知らずに歌っていた歌の作曲家であったり、何度も見た映画の俳優であったり、昔苦労して学んだ物理学理論の創始者であったり・・・、そのような意味で「深いお付き合い」があった方々の名前がありました。日付の順に名前を抜き書すると次のようになりました(数字は生年)。

 1月22日 江藤俊哉(ヴァイオリニスト、1927)/2月8日 ロバート・ジャストロウ(天文学者、1925)、19日 テオ・マセロ(音楽プロデューサー、1925)/3月3日 ジュゼッペ・ディ・ステファーノ(伊、テノール歌手、1921)、19日 アーサー・C・クラーク(米、SF作家、1917、『2001年宇宙の旅』)、21日 中山公男(美術評論家 1927)、 24日 リチャード・ウィドマーク(米、俳優、1914)/4月2日 石井桃子(児童文学作家、1907)、5日 チャールトン・ヘストン(米、映画俳優、1924)、13日 ジョン・アーチボルト・ホイーラー(米、物理学者、1911、ブラックホールの命名)、16日 エドワード・ローレンツ(米、気象学者、1917、ローレンツ方程式、カオス・非線形物理学)、 29日 岡部伊都子(随筆家、1923)/5月8日 伏見康治(物理学者、1909)、26日 シドニー・ポラック(米、映画監督、1934)、10日 水野晴郎(映画評論家、1931)/6月18日 ターシャ・テューダー(米、絵本画家・園芸家、1915)、21日 千葉馨(ホルン奏者、1928)/7月1日 若林駿介(オーディオ評論家、1930)、10日 戸塚洋二(物理学者、1942)/14日 大野晋(言語学者、1919)/16日 ジョー・スタッフォード(米、歌手、1917)/18日 八木健三(岩石学者、1914)/22日? 都城秋穂(地質学者、1920)/27日 ホルスト・シュタイン(独、指揮者、1928)/8月2日 服部正(作曲家、1908)/2日 赤塚不二夫(漫画家、1935)/3日 アレクサンドル・ソルジェニーツィン(ロシア、小説家、1918)/13日 アンリ・カルタン(仏、数学者、1904)/30日 小出昭一郎(物理学者、1927)/9月26日 ポール・ニューマン(米、映画俳優、1925)/10月5日 緒形拳(俳優、1937)/11月3日 - ジャン・フルネ(仏、指揮者、1913)、4日 マイケル・クライトン(米、小説家、1942、『ジュラシック・パーク』)、7日 筑紫哲也(ジャーナリスト、1935、元朝日ジャーナル編集長)、10日 伊藤清(数学者、1915)/12月5日 加藤周一(評論家、1919)、6日 遠藤実(作曲家、1932)、25日 アーサー・キット(米、歌手、1927)、フレディ・ハバード(米、ジャズトランペター、1938)。

 何十年ぶりかに思い出した名前もあれば、長年の「お付き合い」が続いていた方など、私を育て、一緒に人生を歩み、私の人生を豊かにしてくれた方々です。一年を振り返ってこんな風に名前を並べてみたのは初めてですが、数多くの人々に出会っていたことに気がつきました。改めて自分の世界、自分自身を再発見する思いがします。

 なかでも惜別の思いが深いのは加藤周一さんです。「偉大なる知識人」、「知の巨人」などと評され近寄りがたい方ですが、私には親しい先輩とのお別れのように感じます。私の書棚には『羊の歌(正・続)』(岩波新書)をはじめ、『芸術論集』(岩波書店)、『日本文学史序説(上・下)』(筑摩書房)、数冊の『夕陽妄語』(朝日新聞社)、『小さな花』(かもがわ出版)、『居酒屋の加藤周一』(かもがわ出版)、『私にとっての20世紀』(岩波書店)・・・などが並んでいますが、これらは、私一人では近づき難い苦手とする分野に私を誘い、その距離を縮めてくれた友人のようです。そこに見えてきたものは、私にはうまく言葉で表現できない何か心惹かれるものでした。

 この年末年始に昔読んだ『羊の歌』を読み返してみました。彼の生い立ちから始まって、太平洋戦争、さらに1960年の日米安保条約改定までが回想されています。戦争とファシズムの中でいかに自立した精神と正気を保ち続けたか、私にとって最も興味があることですが、彼の生い立ちや感受性にも惹きつけられます。彼は私より25年先輩で、私とは全く違う環境に生まれ育ち、戦争とファシズムのなかで私とは全く違う青春時代を過ごしたはずですが、私が学生時代にこれを読んだときとても身近に感じられました。というよりは、私が漠然と感じたりはっきりと感じながらも言葉に表すことができなかったことを適切な言葉で表現し解釈してくれたのです。もどかしい私の気持ちを代弁してくれるようでした。それは組織や社会、権威や権力の不合理に対する反発や違和感であり、人間の美しさに対する憧れや愛着のようなものでした。

 そして今回、昔読んだときよりいっそう身近に切実に感じられたのですが、それはなぜでしょうか。「仏文研究室」を回想する章に次のような言葉がありました。「資料の周到な操作を通して過去の事実に迫ろうとすればするほど、過去のなかに現代があらわれ、また同時に、現代のなかに過去が見えてくる。」この本はそれを証明しているようです。

 思い起こせば、2000年の大晦日の夜は出版されたばかりの『私にとっての20世紀』(岩波書店、2000年)を読みながら年を越しました。反戦平和に強い関心を持ちながら、「(第一部)いま、ここにある危機」を語り始めます。1999年に成立した「新ガイドライン法案」に始まる一連の法律について、「広い意味での戦争準備だと思う」という言葉は新しい「戦前」を予感させるものでした。そして間もなくアフガニスタン侵攻(2001年)、そしてイラク戦争が始まりました(2003年、今も継続中)。その結果は周知の通り悲惨極まるものですが、さらに最も古い文明発祥の地そして星座の故郷メソポタミア地方が戦場となったことは、二重に悲しいことでした。私たちが星や星座を楽しんでいるとき、その故郷が戦火の中にあるというのです。

 加藤さんはあらゆる問題に対して冷静に客観的・論理的に鋭い分析を加えますが、自らの感受性についても率直に語られます。『羊の歌』や『小さな花』(かもがわ出版)には、人間の美しさに対する愛おしさや愛着が表出されています。年末のテレビに反戦・憲法擁護について語る在りし日の加藤さんの姿が映し出されていました。その表情を見ながら、彼の鋭い視線が和らぎ、ふと微笑んだ瞳の奥に小さな花が映るのを想像して、いっそう敬愛と哀惜の念を深くしたのでした。