失われそうな時を求めて(4)

【ブログ中断のおわび】
 1年間ほど中断してしまい、申し訳ありませんでした。新型コロナウィルスの感染拡大で右往左往しているうちに一年が経ってしまいました。この夏は、これまでにない急激な感染拡大で、毎週土曜日に天文台で開いていた「トワイライトサロン」もしばらく休止となりました。そこで「忘れていたもの」に気がつき、ブログ再開となった次第です。改めて、「交流」のほどよろしくお願いします。

 

 

 

「アインシュタインタワーと天文台」

 

 

 

■天文台誕生

 1955年(昭和30年)、旧仙台市天文台が仙台市西公園に誕生したとき、その姿はとてもユニークなものでした(写真1から写真4)。私が初めて天文台の姿を見たのは1957年の夏ですが(写真3)、その時の印象は、公園の真ん中に白い見慣れぬ「物体」、宇宙船が舞い降りたように見えました。やがて、それは私にとって「宇宙への入り口」になりました。現在の西公園に天文台の姿はありませんが、公園の入り口(昔、交番があったあたり)に新しい白い変わった建物があります。地下鉄東西線・大町西公園駅、地下への入り口です。

 

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▲写真1:誕生直後の仙台市天文台(1955年頃)。すぐ後ろに広瀬川、背景は川内で、米軍が残した白い建物が見えます。

 

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▲写真2:仙台市天文台の「後ろ姿(西面)」。曲面の壁が特徴的。

 

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▲写真3:私が初めて天文台を訪れたとき(1957年、中学2年生)。

 

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▲写真4:青葉城址・天守台から見た仙台市天文台。西公園全体が見えます。天文台周辺には空き地が広がり、桜の若木が植樹されていました。

 

 西公園のこの奇妙な建物は、望遠鏡のドームが天文台であることを示していますが、よく見ると、広いバルコニー、螺旋階段、そして壁面が曲面で構成されていることなど、これまで見たことのないような「変わった」建物でした。不思議に思って天文台スタッフに聞いたところ、「東ドイツ・ポツダム天文台のアインシュタインタワー(後述)を模した」ということでした。後に聞いた話では、「アインシュタインタワーをストレートに模したわけではないが、計画の最初にどんな天文台にするか、イメージを自由に議論した時、アインシュタインタワーが話題になり、そのイメージがずっと共有されていた」ということです。そして熱心に議論を重ねた結果最終的にあのような形に収束したということでした。戦後復興期の時代背景を考えながら天文台建設の経緯を聞くと、仙台市民の教育・科学・文化に対する憧れ・情熱そして期待の大きさが想像されます。

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▲写真5:41㎝反射望遠鏡(西村製作所製)。1978年宮城県沖地震で破損し、三鷹光機の同サイズの電動式望遠鏡に更新されました(新天文台のオープンスペースに展示中)。

 

 ドームの中には、天文台の主、口径41㎝反射望遠鏡が設置されていました。当時国産最大ということでしたが、市民が自由に使える望遠鏡としても最大級の望遠鏡で、理科・科学好きの少年少女を強く引き付ける「永久磁石」となっていました。実は、天文台にはもっと強力な「引力源」がありました。第2代天文台長になる小坂由須人先生です。そして、そこに引き寄せられた多くの人々が仙台天文同好会(注2)の会員になりました。小坂先生は、文字通り天文台の「主(ぬし)」で、西公園の天文台を語ることは小坂先生を語ることになりますが、別の機会に詳しく。

 

■アインシュタインタワー

 アインシュタインタワーは、1921年ドイツ・ポツダム天文台に建てられた太陽観測のための塔望遠鏡です。アインシュタインの一般相対性理論の予言(注1)を検証するため建設されたものでこの名前があります。デザインは有名なドイツ表現主義の建築家エーリッヒ・メンデルスゾーンによるもので、ドイツ表現主義の代表作として記念碑的建築物になっています。その姿を見ると、アインシュタインの名前とともに、その宇宙的なデザインに当時の仙台市天文台関係者が引き付けられたことが想像できます。

 実は、それから時間が経ちますが、ベルリンの壁が崩れる前年(1988年)、東ドイツのポツダムで開催された天文学(宇宙の磁場)の国際会議に参加した時、アインシュタインタワーを見学する機会がありました。ポツダム天文台の敷地の奥の木々に囲まれたおとぎの国のような小さな空地に突然白い塔のような美しい不思議な建物が現れました。それがアインシュタインタワーでした。今にも宇宙に飛び立ちそうな宇宙船のように見えました。案内してくれた天文学を専攻する大学院生によると、「今でも見学者が多いが、天文学者よりも建築家や建築を専攻する学生の方が多い」ということでした。その影響力はいまも続いているようでした。

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▲写真6:ポツダムのアインシュタインタワー( Astrophysikalisches Institut Potsdam、Wikipediayより引用)

 この不思議な形の「望遠鏡」はアインシュタインが予言した一般相対性理論の効果を検証する目的で作られたものです。アインシュタイン効果は非常に微小なもので、超精密な観測が必要でした。そのために、できるだけ大気の影響を少なくするように工夫されたものです。あらためて旧天文台の写真と比べてみると、もしアインシュタインタワーの「塔」の部分を縮めると、それらしい雰囲気が感じられます。

 

■アインシュタインと仙台

 天文台建設当初、アインシュタインタワーが話題になったそうですが、仙台市民にとってアインシュタインに対する特別な思いがあったようです。

 アインシュタインは相対性理論によって世界で最も有名な科学者になりました。そのアインシュタインが大正11年(1922年)に夫妻で来日し、仙台・松島を訪問しています。東北大学や市民から熱狂的な歓迎を受けたそうですが、仙台市民の間では、「アインシュタイン博士が我が学都仙台を訪れ、松島を観光した」ことを大変誇りに思ったようです。そうした空気は天文台誕生当時にも残っていたようです。

 アインシュタインが仙台を訪問することになった理由の一つは、当時の東北帝国大学(東北大学の前身)に相対性理論研究者・石原純(注3)がいたからということです。石原博士はドイツ留学時代にアインシュタインのもとで学び旧知の関係にあり、講演などでは通訳を務めました。このとき、石原とともにアインシュタインに同行したのが、宮城のアララギ派の女流歌人・原阿佐緒でした。先輩から二人のロマンスをよく聞いたものですが、石原もアララギ派の歌人で、その縁で親しくなったということした。この話を聞いて、「僕らも歌を習って女流歌人と親しくなりたい」などと冗談を言い合ったものです。

 当時、近代の科学技術の模範をドイツに求めていたので、学者や学生の間にはドイツに対する強い信頼と憧れがありました。私の学生時代も、理系の学生にはドイツ語が必要で、セミナーなどで、ドイツ語で書かれた物理学や天文学の教科書が使われていました。

 もう一つ、先輩たちのドイツに対する憧れとして興味深い話を聞きました。天文台あたりから広瀬川・大橋・青葉山・天守台などを見た風景がドイツの古都ハイデルベルグに似ている、「仙台は東洋のハイデルベルグ」という話です。関連して、マイヤー・フェルスター著『アルトハイデルベルグ』と題するハイデルベルグを舞台にした短編恋愛小説がありました。先輩たちの間ではよく読まれたそうですが、ドイツではほとんど知られていなかったようです。後年、私が実際にハイデルベルグに行ったときに感じたことは...。それは次回に。

 

 

注1.重力赤方偏移。強い重力場中で放射された光は、一般相対性理論の効果で波長が伸びる現象。アインシュタインタワーでは、太陽のスペクトル線を精密に観測し、重力赤方偏移を確認しようとしたが、実際には検出できなかった。この現象は、後に別の方法で精密に確認されている。

 

注2.仙台市天文台を拠点に活動する天文愛好家の団体。その創立は天文台より古く、1950 年秋、吉田正太郎、青木正博、小坂由須人氏ら教員や大学生などを中心に17人で発足。会報『星座』を発行し、現在も天文台で月1回「例会」を開催している。新旧天文台の創設にあたっては、様々な活動を通じて支援した。

 

注3:石原純 Wikipediaを参照すると彼の活動や業績を知ることができます。歌人・原阿佐緒とのロマンスばかりが強調されますが、さまざまな科学的業績があります。現在も発行されている岩波書店の月刊科学雑誌『科学』は、日本で唯一の市民向け本格的科学雑誌ですが、1931年に創刊され、石原が初代編集主任を務めました。