惜別2008年

 「2008年を振り返えると・・・」と始めたら、ブログ管理者から「台長、いまさら2008年の事を、と言われませんか?」との忠告。ご心配なく、今だから書けることを書きます。

 昨年12月末、評論家加藤周一氏の訃報に接し様々な思いをめぐらせていたら、インターネット上で2008年の訃報一覧に出合いました(訃報2008年-Wikipedia)。順に名前を追っていくと、私の書棚に並んでいる本の著者であったり、愛聴したレコードやCDの演奏者であったり、知らずに歌っていた歌の作曲家であったり、何度も見た映画の俳優であったり、昔苦労して学んだ物理学理論の創始者であったり・・・、そのような意味で「深いお付き合い」があった方々の名前がありました。日付の順に名前を抜き書すると次のようになりました(数字は生年)。

 1月22日 江藤俊哉(ヴァイオリニスト、1927)/2月8日 ロバート・ジャストロウ(天文学者、1925)、19日 テオ・マセロ(音楽プロデューサー、1925)/3月3日 ジュゼッペ・ディ・ステファーノ(伊、テノール歌手、1921)、19日 アーサー・C・クラーク(米、SF作家、1917、『2001年宇宙の旅』)、21日 中山公男(美術評論家 1927)、 24日 リチャード・ウィドマーク(米、俳優、1914)/4月2日 石井桃子(児童文学作家、1907)、5日 チャールトン・ヘストン(米、映画俳優、1924)、13日 ジョン・アーチボルト・ホイーラー(米、物理学者、1911、ブラックホールの命名)、16日 エドワード・ローレンツ(米、気象学者、1917、ローレンツ方程式、カオス・非線形物理学)、 29日 岡部伊都子(随筆家、1923)/5月8日 伏見康治(物理学者、1909)、26日 シドニー・ポラック(米、映画監督、1934)、10日 水野晴郎(映画評論家、1931)/6月18日 ターシャ・テューダー(米、絵本画家・園芸家、1915)、21日 千葉馨(ホルン奏者、1928)/7月1日 若林駿介(オーディオ評論家、1930)、10日 戸塚洋二(物理学者、1942)/14日 大野晋(言語学者、1919)/16日 ジョー・スタッフォード(米、歌手、1917)/18日 八木健三(岩石学者、1914)/22日? 都城秋穂(地質学者、1920)/27日 ホルスト・シュタイン(独、指揮者、1928)/8月2日 服部正(作曲家、1908)/2日 赤塚不二夫(漫画家、1935)/3日 アレクサンドル・ソルジェニーツィン(ロシア、小説家、1918)/13日 アンリ・カルタン(仏、数学者、1904)/30日 小出昭一郎(物理学者、1927)/9月26日 ポール・ニューマン(米、映画俳優、1925)/10月5日 緒形拳(俳優、1937)/11月3日 - ジャン・フルネ(仏、指揮者、1913)、4日 マイケル・クライトン(米、小説家、1942、『ジュラシック・パーク』)、7日 筑紫哲也(ジャーナリスト、1935、元朝日ジャーナル編集長)、10日 伊藤清(数学者、1915)/12月5日 加藤周一(評論家、1919)、6日 遠藤実(作曲家、1932)、25日 アーサー・キット(米、歌手、1927)、フレディ・ハバード(米、ジャズトランペター、1938)。

 何十年ぶりかに思い出した名前もあれば、長年の「お付き合い」が続いていた方など、私を育て、一緒に人生を歩み、私の人生を豊かにしてくれた方々です。一年を振り返ってこんな風に名前を並べてみたのは初めてですが、数多くの人々に出会っていたことに気がつきました。改めて自分の世界、自分自身を再発見する思いがします。

 なかでも惜別の思いが深いのは加藤周一さんです。「偉大なる知識人」、「知の巨人」などと評され近寄りがたい方ですが、私には親しい先輩とのお別れのように感じます。私の書棚には『羊の歌(正・続)』(岩波新書)をはじめ、『芸術論集』(岩波書店)、『日本文学史序説(上・下)』(筑摩書房)、数冊の『夕陽妄語』(朝日新聞社)、『小さな花』(かもがわ出版)、『居酒屋の加藤周一』(かもがわ出版)、『私にとっての20世紀』(岩波書店)・・・などが並んでいますが、これらは、私一人では近づき難い苦手とする分野に私を誘い、その距離を縮めてくれた友人のようです。そこに見えてきたものは、私にはうまく言葉で表現できない何か心惹かれるものでした。

 この年末年始に昔読んだ『羊の歌』を読み返してみました。彼の生い立ちから始まって、太平洋戦争、さらに1960年の日米安保条約改定までが回想されています。戦争とファシズムの中でいかに自立した精神と正気を保ち続けたか、私にとって最も興味があることですが、彼の生い立ちや感受性にも惹きつけられます。彼は私より25年先輩で、私とは全く違う環境に生まれ育ち、戦争とファシズムのなかで私とは全く違う青春時代を過ごしたはずですが、私が学生時代にこれを読んだときとても身近に感じられました。というよりは、私が漠然と感じたりはっきりと感じながらも言葉に表すことができなかったことを適切な言葉で表現し解釈してくれたのです。もどかしい私の気持ちを代弁してくれるようでした。それは組織や社会、権威や権力の不合理に対する反発や違和感であり、人間の美しさに対する憧れや愛着のようなものでした。

 そして今回、昔読んだときよりいっそう身近に切実に感じられたのですが、それはなぜでしょうか。「仏文研究室」を回想する章に次のような言葉がありました。「資料の周到な操作を通して過去の事実に迫ろうとすればするほど、過去のなかに現代があらわれ、また同時に、現代のなかに過去が見えてくる。」この本はそれを証明しているようです。

 思い起こせば、2000年の大晦日の夜は出版されたばかりの『私にとっての20世紀』(岩波書店、2000年)を読みながら年を越しました。反戦平和に強い関心を持ちながら、「(第一部)いま、ここにある危機」を語り始めます。1999年に成立した「新ガイドライン法案」に始まる一連の法律について、「広い意味での戦争準備だと思う」という言葉は新しい「戦前」を予感させるものでした。そして間もなくアフガニスタン侵攻(2001年)、そしてイラク戦争が始まりました(2003年、今も継続中)。その結果は周知の通り悲惨極まるものですが、さらに最も古い文明発祥の地そして星座の故郷メソポタミア地方が戦場となったことは、二重に悲しいことでした。私たちが星や星座を楽しんでいるとき、その故郷が戦火の中にあるというのです。

 加藤さんはあらゆる問題に対して冷静に客観的・論理的に鋭い分析を加えますが、自らの感受性についても率直に語られます。『羊の歌』や『小さな花』(かもがわ出版)には、人間の美しさに対する愛おしさや愛着が表出されています。年末のテレビに反戦・憲法擁護について語る在りし日の加藤さんの姿が映し出されていました。その表情を見ながら、彼の鋭い視線が和らぎ、ふと微笑んだ瞳の奥に小さな花が映るのを想像して、いっそう敬愛と哀惜の念を深くしたのでした。