タイムマシン 日本SF作家クラブの訪問とトークショー(その2)

遅ればせながら(その2)ですが、日本SF作家クラブの皆さんとのトークショーで私が推薦したSFの一冊目は(遅れた言い訳になりませんが)H.G.ウェルズの『タイムマシン』(1896年)です。時間の壁を超えるタイムトラベル(時間旅行)の物語で、その後のSFの原点といえる作品です。

 

日ごろ時間の壁に泣かされている者にとっては、時間を自由にコントロールできたらと思うのですが、それができないのでSFになります。もう少し早く着いていたら、もう少し早く生まれていたら、一寸した時間のすれ違いよる切ない思いがいろいろな物語のテーマになります。

 

『タイムマシン』では、タイムトラベルの冒険とともに、人間社会や地球の未来が語られますが、文明批判や未来社会に対する警告のようにも読めます。

 

さて、タイムマシンを現実的・科学的に考えると、さまざまな矛盾や困難に出会います。過去の出来事は「事実」として変えることができませんが、タイムマシンがあると過去にタイムトラベルして「事実」を変えることができることになります。そうするとその後の歴史が変わってしまい、「現在の事実」も事実はではなくなってしまいます。有名な例に「親殺しの矛盾」があります。もし、自分が生まれる前にタイムトラベルして親を殺してしまったとすると、自分は生まれることがなく、今存在しないことになってしまいます。さらに、人間のような物体が突然出現したり消えたりすることは、あらゆる自然の法則を破ることになります。周囲に影響を与えずに、物質が現れたり消滅したりすることは許されません。タイムマシンの可能性を真剣に考えている科学者もいますが、それはミクロな世界や極端に異常な世界で原理的な可能性を追求しているもので、原理的に可能であっても、人間のタイムトラベルが可能ということでは全くありません。

 

『タイムマシン』のようなタイムトラベルはできなくても、範囲は限られますが、別な方法で時間を超越することができるような気がします。私たちは人生のなかで様々な経験をしますが、過去の経験は記憶の中に残り、記憶をたどって時間を行き来することができます。私の場合、物心ついてから半世紀余り、その間を自由にタイムトラベルすることができます。そのような意味で、私たちはタイムマシンを内蔵し、人生とともにグレードアップされると言ってもいいでしょう。長生きすればより「長距離」のタイムトラベルを楽しむことができるわけです。長生きすることの楽しみを見つけました。このようなタイムトラベルは過去の「事実」に影響を与えることがないので、理にかなっています。

 

個人史を超えてもう少し広く考えると、過去の記憶は歴史や文化として私たちの社会に蓄積されています。そのような歴史や文化をたどることも一つのタイムトラベルです。過去を振り返ると、新しい発見によって私たちの認識が変わることはありますが、過去の事実を変えることがないので、これも理にかなっています。ただ、このようなタイムトラベルは、過去の人物と直接話をしたり、交流をすることが出来ないのが残念です。このことを画家安野光雅さんが『片想い百人一首』(筑摩書房)なかで次のように上手に表現しています。「古文は日本のどこで読んでも空間を越えて通じる。和泉式部の歌に酔うという、時間さえも越えて心が通じるということがある。と言っても、はなはだ一方的で、和泉式部がわたしのことを知るわけではない。すなわち「片想い」ということになる。」

 

もし、タイムマシンでタイムトラベルができたとしても、現在に戻るまでは、周囲に影響を与えたり交流することはできません。この「片想い」こそ現実のタイムトラベルの本質、だからこそSFの世界でタイムマシンにあこがれるように思います。個人的な時間感覚について考えると、相対性理論のように、人それぞれに固有の時間があるように思います。加藤周一『小さな花』(かもがわ出版)の「美しい時間」に次のような言葉がありました。「・・・あれは何年の何月のことであったか。それはもはや記憶にない。美しい時間は、日附けを失った。・・・・。かつての感覚は、今も私のなかに続いている。日附けのない時間は、永遠の時間でもある。」特別な経験は時間を超越し、その人にとって永遠の時間を獲得することがあるようです。「永遠」というと、ギリシアのテオ・アンゲロプロス監督の『永遠と一日』(1998年)という映画がありました。「時」が重要なテーマの映画ですが、タイトルから一日の経験が永遠・一生につながり、永遠を一日に凝縮するような経験もあり得ることを感じます。

 

さて、過去を語れば「未来はどうか」ということになりますが、それはいつか未来に。(その2)があれば、(その3)があるかどうかは未定です。