夕焼けに赤く染まって考えたこと

 秋分も過ぎ、「涼しくなりましたね。」がいつのまにか「寒いですね。」になりました。仙台市天文台周辺の風景も少し秋めいてきましたが、泉ヶ岳や遠くの山がくっきりと見える日が多くなり、空気も澄んできたようです。

 日没は早まり、日の出は遅くなりました。確実に季節が進んでいるようです。もちろん、季節の変化は、傾いた自転軸の方向を一定に保ちつつ地球が太陽の周りを公転することにより起こる現象で、その規則性は保障されています。異常気象で季節感が多少ずれても、四季の変化は確実に規則的に繰り返されます。私たちの日常生活のリズムは天体の回転運動の規則性によって作り出されています。

 仕事に気をとられて気づかないこともありますが、夕焼けが美しく雲を染める日も多くなりました。日没前後の夕焼け、空の色や雲の輝き、そのダイナミックで微妙な変化は、自然現象のなかでも最も美しくダイナミックなものだと思います。もし、夕焼けの中に細い月が見えたり、金星が輝き始めたりすると夕焼けの美しさは一層引き立ちます。夕焼けはいつでも見られる現象ですが、仕事などに気をとられて見逃すのは惜しい気がします。

 日没や夕焼けの風景は映画や文学の背景に登場しますが、文化人類学者レヴィ・ストロースの著書『悲しき熱帯』では、日没の風景が主役として登場します。第2部「旅の断章・日没」(川田順三訳、中公クラシックス、93頁)では、ブラジルへ向かう航海で見た日没の風景と日没を眺めながら沸き起こる感慨を何頁にもわたって克明に記していますが、また「これらの現象を定着するための言葉を見出す」ことの難しさも記しています。

 宇宙から眺めれば、日没は地球の自転によって日光のあたる部分から影の部分に入るだけのこと。日の出も、同じように影の部分から日光の当たる部分に移動するだけのことです。日出も日没も同等の自然現象で本質的な違いはないはずですが、私たちには全く違う感慨が訪れます。

 日の出は一日の始まり、今日一日をどう過ごすか、私たちの心を未来に向けます。一方、日没は一日の終り、その日に起こったことを思いめぐらせ、私たちの心を過去に向けるような気がします。夕焼けを眺めているとなぜか心が安らぎ、その日の出来事を静かに反省することができます。心身が落ち着いたところで、一夜の休息の後、次の朝にリフレッシュした心身が再生する、というイメージが湧いてきます。ここでも私たちの生活や心情が宇宙に密接につながっているような気がします。

 日没や夕焼けの風景は、太陽の光と地球の大気が織り成す現象ですが、日々大きく違った風景が見られます。毎日、一度だけの豪華なショーが繰り広げられます。そのとき私も夕焼けを浴びて赤く染まり、日没の風景の一部となります。ですから、客席からショー見るというよりは、私もその一部として参加している自然現象(ショー!?)と考えたくなります。宇宙を最も身近に感じる瞬間です。